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# by brasilia70 | 2012-05-27 18:17
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 ビンバ、パスチーニャを中心としたサルヴァドールの何人かのメストリたちの力で、カポエイラはバイーアの新しい世代に伝えられた。これらのメストリ達は、カポエイラの社会的なイメージを改善し、広くブラジル人たちに広める役割を果たした。しかしながらビリンバウを取り入れたヘジオナウ、アンゴラというスタイルは、1950年代には依然としてバイーアに限定されていた。カポエイラのショーはブラジル全土で観衆を惹きつけたが、民俗文化としての宣伝の仕方は、カポエイラを古い民衆文化として見る見方を促進し、南東部で起こったような、若者たちが受容していく文化としてはとらえられなかった。それゆえビンバやパスチーニャの業績は、ブラジル経済におけるバイーアの低い地位によって制約を受ける危険をはらんでいた。


地方から国家へ:ブラジル全土への広がり
1950年代-1970年代


 このような要因にもかかわらず、1950年以降、バイーア・スタイルのカポエイラはブラジル全土へ急速に広まっていった。ビンバ、パスチーニャとそれぞれの弟子たち、何人かのバイーア人たちがそのプロセスに重要な役割を果たした。しかしながらバイーア・スタイルは「砂漠を征服」したわけではなく、リオやレシーフェといった都市においては土着のカポエイラや音楽、運動と出会うことになった。これら土着の伝統のインパクトについては白熱した議論が起こっている。概してその地域の見方は、土着的要素の重要性を強調する傾向にある。しかし実際にはカポエイラは様々なチャンネルを通じて広まっていったため、単純化した説明はできない。私も一部のグループや人々について記述を省かなければならなかったことを謝罪したい。

リオのカポエイラ

 たとえばリオにおいては、共和制初期の抑圧を生き延びたカポエイラが、いくつかの形式で存在していた。ひとつは、ブルラマキやシニョジーニョのカポエイラのように、リングで使う技術から構成された、機能的なカポエイラが存在していた(第5章)。二つ目は、よりサンバやバトゥーキと結びついた、より遊び的なカポエイラが貧民街などにあった(第3章)。最後に古いカポエイラ・ギャングの残存で、とりわけラパ区の赤線地帯などでカポエイラを抗争の道具として使ってい。もっとも有名なのは一度に2,3人の警察を相手にしたと言われるマダミ・サタンである。彼のあだ名は、カーニバルで女性の悪魔の衣装を着てパレードに参加したところに由来している。このゲイ・カポエイラは1968年ごろに亡くなっている。

 このような異なるタイプのカポエイラの伝統が存在したことが、リオにおけるバイーアのカポエイラの受容をより容易にした。ビンバのグループが1948年にリオを訪れようとしたとき、『ジアリオ・アソシアード』紙は「ジョアン・ミナは小僧ビンバがまともなカポエイラをするか見たがっている」というタイトルの記事を掲載している。その記事ではほかにもバトゥーキやスラムで行われていたカポエイラについても触れられている。
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# by brasilia70 | 2012-05-12 18:15 | 久保原
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バイーアのカポエイラスタイル-ヘジオナウとアンゴラ-は、バイーア人のフリースタイルの競技への参加を通じて、あるいはフォルクローレとして売り込まれたカポエイラの披露を通じてリオに現れた。もし両方のタイプのパフォーマンスが、より広い観衆に知られ始めているバイーアからのカポエイラに寄与したなら、実践として普及を保証するのに十分ではなかった。この状況はバイーア人移民の到着で変わり、職やより良い暮らしを求めてブラジルの北東部を出て南東部に来た何千人もの中から、きちんとした基礎に基づきカポエイラを教え始める人が出てきた。定住しに来た最初の人の中に、エスピリト・サント州のジョエウ・ロウレンソというアンゴレイロがいて、マドゥレイラに移り住んだ。そこで彼はポルテーラという有名なサンバ学校の副リーダーの娘と結婚した。彼の義父のアンテノール・ドス・サントスはカポエイラの強いサポーターとなり、サンバと一緒に活動していた。あるレポートによると、ジョエウは1953年にリオに住んでいたバイーアからの20~30人のカポエリスタのリーダーで、バイーアのヴァジアサォンを披露するパフォーマンスを組織していた。

1950年代と60年代にはM.ピトゥ(ホッキ・メンデス・ドス・サントス)、マリオ・サントスやジジャウマ・バンデイラのようなより多くのバイーア人カポエリスタがリオにやって来た。カカオプランテーションとして有名な地域のバイーア南部出身のアルトゥール・エミージオ・ジ・オリヴェイラはコンテンポラリーカポエイラに対する決定的な影響ゆえに、彼らの中で突出していた。彼はカカオ地帯の中心地であるイタブーナで青年期を過ごし、そこで様々な格闘技を練習し、M.パイジーニョ(テオドロ・ハモス)からカポエイラを習った。彼の出身地方は、ポルト・セグーロの元行政区で、トードス・オス・サントス湾からかなり離れた地域と考えられたため、パイジーニョのカポエイラがサルバドールやヘコンカヴォで行われているスタイルから非常に異なっていたという可能性がある。

1948年以降から、アルトゥール・エミージオはサンパウロで様々な賭け試合に参加した。彼は1951年に、新聞が「カポエイラ対フリースタイルのセンセーショナルな試合」と謳った試合でエドガルド・ドゥーロに勝ち、広く称賛された。1953年にリオで有名なフリースタイルファイターのヴァウデマール・サンタナが彼を一連の賭け試合に招待した。アルトゥール・エミージオはシニョジーニョの弟子のルドルフォ・ヘルマニーに負けたが、他の相手には勝ち、また何人かのカルロス・グレイシーの柔術の生徒とリングで対戦した。そのステージでアルトゥール・エミージオは、例えばグレイシー兄弟が彼にリング状で柔道着を着るよう要求したなど、これらのコンテストのルールの論争に、ビンバより20年早く巻き込まれることになった。

アルトゥール・エミージオがこのような影響を持っていた理由の一つは、彼がリングではファイターであるにもかかわらず、毎日の練習では音楽、歌、儀式のあるカポエイラを相変わらず守っていたことにある。広範囲の格闘技の使用に頼るという彼の戦いのパフォーマンスと並行して、彼はフォルクローレやエキゾチックな儀式により興味のある観衆にカポエイラを披露していた。同時に彼は最初はコパカバーナの海岸地区にアカデミアを開きカポエラを教え始めたが、それはあまり成功しなかった。彼はそれから町の北東部ボンスセッソ付近で教えた。その時までに彼のアカデミアは町での「一種のカポエイラの本部」となった。M.ガットによると、彼は「ジャンプや見ごたえのある蹴りの派手なスタイル」のおかげで、当時リオでもっとも有名なカポエリスタとなった。

1960年代に登場した多くのカポエイラのメストリ-レオポウジーナ、パウロ・ゴメス、セウソ・エンジェーニョ・ダ・ハイーニャ、ジジャウマ・バンデイラ-は、彼の生徒だった。彼らの何人かは自分たちで教え始め、1963年には少なくとも10余りのアカデミアがリオで行われていた。それらのほぼ全てが北部地区にあった。アルトゥール・エミージオは「国の素晴らしいカポエリスタのひとりであり、リオでの偉大なプロモーター」として称賛された。彼はビンバの直弟子ではなかったが、例えば速いリズムをよく使うなど、多くの点でヘジオナウに近いカポエイラのスタイルの普及に貢献した。しかしビンバやその弟子と比べて、アルトゥール・エミージオは動きの長い「セクエンシア」を体系的には使わなかった。
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# by brasilia70 | 2012-05-11 06:35
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 アルトゥール・エミジオは軍隊ででもカポエイラを教え、このようにして20世紀初頭以来のブラジルのナショナリストの夢の実現に貢献した(第1章参照)。格闘技の訓練の代わりに、シンコペートしたジンガを用いて新兵に汗を流させたキーパーソンはLieutenant ラマルチーニ・ペレイラ・ダ・コスタだった。この海軍将校はリオにある軍の体育学校で学位をとり、同じくリオにある海軍体育センター(CEM)のチーフインストラクタとなった。アルトゥール・エミジオと2年間の練習後、ラマルチーニは正式な援助を受けて海兵隊にカポエイラ指導プログラムを始動させることに自信を感じた。CEMの指導者やCEMの柔術インストラクタを含む200人の兵士と8人の将校は、アルトゥール・エミジオやジジャウマ・バンデイラやラマルチーニの指導の元、1961年3月に練習を始めた。こうして「国技形式としてのカポエイラのモラルを回復した」。その計画は、それ以降全ての海兵隊、とりわけブラジルの現在の軍事力の象徴である航空母艦ミナス・ジェライスに従事する海兵隊にカポエイラを教えることになるカポエイラインストラクタを訓練することだった。

 ラマルチニは以前カポエイラを調査しながら2ヶ月間バイーアで過ごし、そこでビンバの生徒と練習した。彼はまたビンバや他のアンゴラの評判の良いメストリから学ぼうとしたが、芸術に対する彼の興味は疑いに直面させられた。ラマルチニは、偉大なカポエイラは自分のけりを教えたくない秘密主義者であると断言した。彼は偽りながら彼らと仲良くなり、古いメストリから情報を引き出す手段として実際の意図を隠していたと認めた。代わりに、彼らはその場で作り上げたふざけた話で彼の頭をいっぱいにした。ここで後に完全に一般的になるパターンに気づくことができる。主に独り占め、あるいは自分のグループの利益のために古いメストリからすべての芸術の謎を引き出そうと、バイーアへ旅行している南東部の都市出身の若者である。ラマルチニは後に、一人でカポエイラトレーニングをするための詳しい説明付きカポエイラの入門書を発行し、それは「先生のいらないカポエイラ」という挑発的なタイトルのもと、何度も増刷された。

 リオでの繰り返されたカポエイラの披露とカポエイラ「アカデミー」の普及はインパクトを持ち始めた。1960年代初頭の間、カポエイラは既にかなりの公共の場を獲得した。リオがまだ実際にはブラジルの首都であったので、これは国全体に影響があった。小さなグループの人々は、カポエイラの社会的意識を上げるために行われた試みである「オペレーションカポエイラ」と呼ばれるものを始めた。カポエイラの先生アンドレ・ラセは「ホーダ・ジ・カポエイラ」と呼ばれたラジオ番組の責任者であった。1965年、さらに1974年に国営のラジオ・ホケッチ・ピントによる放送で、町で起こっていた芸術だけでなくカポエイライベントも宣伝した。この時期に映画監督や音楽家もまたカポエイラに興味を持ち、ワンダ・マリアは「Samba do Berimbau」を、エジ・リンコンは「Na Onda do Berimbau」をレコーディングした。新興のボサノバ運動ではバーデン・パウエルやヴィシニウス・ジ・モラエスによって作曲された「Berimbau」のヒットを引き起こすのに貢献した。カポエイラシーンは「Pagador de Promessa」のような映画に顕著に現れ、さらに広く社会に知られたパフォーマーを作るのに寄与した。

 カポエイラはまた、とくに北部地区にある貧民居住区で路上のレッスンを通じてより非公式に広がった。その経過の典型的なものがカシアスでの路上ホーダである。それはもともと聖アントニオに捧げる祭りのために、M.バルボーザ(パウロ・ゴメスの生徒)と1970年代初頭に練習をしていた2人の若い兄弟によって行われた。その後毎週日曜日に定期的なイベントとして定着した。最初は貧しい子供たちがやっていただけで、彼らの目的は観客からあまったお釣りをもらえるまでカポエイラをすることだった。そして認められているメストリたちはわざわざ出席せずその場所を彼らの存在で合法化しなかった。
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# by brasilia70 | 2012-05-11 04:35 | カンナ
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カシアスのホーダは多くの若いカポエイリスタを惹きつけ、リオのトップクラスの連中が腕試しをする大きなイベントの場として発展した。(図7.1参照)
シラスやトウロたちは批判していたにもかかわらず、とりわけフェスティバルの開催中においては、最終的に参加することになった。
後に、メストリ・フッソとロゲリオがカシアスのホーダの方向を想定した。
他にも、クインタ・ダ・ボアビスタ、セントラルトレインステーション、フラメンゴで重要なストリートホーダが定期的に開催された。

 アーチャー・エミディオらバイーアの人々のカポエイラがリオの北部で拡大していく一方、南部地区として知られた、臨海沿いの高級地区でまた別のサクセスストーリーがある。
1964年バイーアへと旅立ち、数ヶ月間メストリ・ビンバのもとで訓練された、都会のプロフェッショナル、“fazendeiro(大地主)”ラファエル・フローレス、そして彼の兄弟パウロ達は、カポエイラの練習をラランジェイラスにある彼らのマンションのペントハウスのベランダで再開することに決めた。
まもなく若者が集まり、中には少年ジルベルト、ペイシーニョ、クラウジオ・ダナジーニョもいて、彼らもまた練習していた。
近隣のモホ・ジ・サンタマルタの貧民街からやってきた若者、ガリンカとソリソを例外として、彼らはみんな中流階級で、白人、かれらの殆どが学歴を有する者だった。
ガト(フェルナンド・カバルカンティ)とジル・ベーリョだけは、カポエイラを学ぶ前から、レブロンにいるシーニョジーニョの生徒と度々連絡を取っていた。
そのグループはセンザーラ(奴隷小屋)という。
彼らは通常基礎を教えてくれる特定のメストリを持たなかったが、ビンバがフローレス兄弟に教えたこと、お互いに学んできたことを確立しようとした。
1968年にセンザーラに加わったメストリ・ネストール・カポエイラは、彼らの練習スタイルを次のように特徴づけている。

 センザーラの子供達―ビンバの系統から'despised waist'(ビンバの特有のセクエンシア)まで含む―は、次のような内容に基づいた網羅的で方法論的な反復トレーニングを導入した。
伸ばした手をキックの練習の的として使って反復練習;ペアでの蹴り-反撃と蹴り-転ばしという体系的なトレーニング;オリエンタルマーシャルアートスクールで観察された適応訓練;優れた気持ちのコンディション{を結果として引き出した}練習前のハードなウォームアップの動きを制定;素早い攻撃と正確でパワフルで、しかし悪意とは完全に無縁の理性的なゲームの基礎となるエスキーバとハステイラの技術


図7.1 1970年リオデジャネイロ、カシアスのストリートホーダ
提供:FICA(International Capoeira Angola 連盟)ワシントンDC
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# by brasilia70 | 2012-05-11 02:34 | ミッテル
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 1966年、ビンバの選りすぐりの弟子たちはショー‘Vem Camara’のためリオを訪れた際グループ・センザーラと出会った。 カミーザ・ホッシャは相変わらずフローリスのペントハウスでのレッスンを続けていた。
 若きショーの出演者たちがサルヴァドールに帰るなか、メンバーの一人ペルギッサはセンザーラに留まることを選ぶ。同年、センザーラもまたクラブ‘Germania’で公開パフォーマンスを行っている。 バイアーノ・アンゾウ(ビンバの弟子)もまた1968年にリオに居を移しセンザーラへ合流した。
 そのころセンザーラは、当時始まったばかりのカポエイラトーナメント‘Brimbau de Ouro’ ・・・リズムとジョーゴに基準を設けそれぞれのスクールごとに審査し競い合う・・・に参加。 彼ら自身想像もしなかったことにガトとペルギッサは1967年のその大会を制覇、さらに翌年もセンザーラは連覇を成した。 それによってセンザーラの名は広く観衆に知られることとなり、やがてそのトレーニング方法や卒業制度、組織構造、スタイルは多くの指導者やグループがモデルとして取り入れ始めるところとなった。

 しかしながら、彼らの熱意は(そのようなセンザーラ独自のシステムが)バイーアで為されているようなカポエイラの基礎の欠如を補うのに充分でないことを自覚していたため、結果として多くのメンバーがバイーアで多くの時間を過ごすこととなる。いくつかの道場でトレーニングを積み、もっとも伝統的なアンゴーラのホーダにも参加している。
 メストリ・ガトも強調するように、彼らはリオに戻るとすぐさまより若い生徒に彼らの経験を伝えようと努力した。 1970年代初頭のある時期にはビンバの最も高名な弟子達がセンザーラのホーダを訪れることが日常的な出来事ともなった。 1970年代には再び多くのバイーアのカポエリスタが発展途上であるリオのカポエイラの持つ計り知れない可能性に引き寄せられ移ってきた。 その中に若いカリオカンたちに大きな影響を与えることとなったペイト・ペラード、バイアニーニョ・ダ・マサランドゥーバ、デンチーニョらがいた。
 カミーザ・ホッシャの弟、ジョゼ・タヂウ・カルドーゾ(のちのメストリ・カミーザ、当時はカミジーニョと呼ばれていた)は1972年にリオに着くとすぐにセンザーラの主導的役割を担う人物として頭角を現した。

 それらの多くのバイーアとの繋がり、なかでも特にビンバのヘジョナウとの結びつきが有りながらなお、センザーラのスタイルは独自で在り続けた。 メストリ・ガトを最も特徴付ける足払いと投げ技(その当時のリオではあまり使われなかった)はセンザーラに置けるトレーニングの中心であった。
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# by brasilia70 | 2012-05-11 00:33 | グランジ
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 初期の評論家の一人であるアンドレ・ラセーによると、センザーラ・スタイルのトレードマークは「かっこいいジンガ」だったが、それはあまりクリエイティブでない規格化を招く傾向があったという。高い蹴りは自然にハステイラをひかえるようにさせたし、ジョーゴも(おそらく無意識的にだろうが)あらかじめ決められた流れのようなものになり、アゴゴも偏見のため取り除かれた。ラセーは「彼らは新しい道を模索していた」としながらも、次のように批判している。

 ジンガは常に大振りで、リズムはサンバのように速い。彼らの多くがアンゴラはヘジオナウをゆっくり、床でするものだと考えていたが、それは誤りだ。

 なぜセンザーラはかくも早く成功することができたのだろうか?それはバイーアから移住してきた有名なメストリたちよりも早いものでさえあった。ネストール・カポエイラによれば、彼らが中産階級であったことは明らかに有利な条件だったと強調する。たとえば彼らは黒人や下層階級のメストリたちに比べて圧倒的にメディアへのアクセスが容易だった。加えてブラジルの他の地域とは違い、リオではすでにカポエイラの伝統が存在したことが、その受容を容易にした。そのためセンザーラの驚異的な躍進が可能であったという。
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# by brasilia70 | 2012-05-10 22:32 | 久保原
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 まもなくセンザーラは、全員を収容しきれないほど大きくなった。1974年センザーラは赤帯を取得したリーダーたちが自分たちの道場を持つことにより、分断化された。しかし彼らはグループ間のつながりは維持していた。メストリ・カミーザはアバダを設立し、ボネコ、パウラゥン、パウリーニョ・サビアーはカポエイラ・ブラジルを作った。ジェロン・ヴィエイラは、米国で自分のグループを作った。

サンパウロのカポエイラ

 いくつかの資料によると19世紀のサンパウロにはすでにカポエイラが存在したらしいことが分かる。地元の法律がカポエイラを禁ずる条文が残っている(第3章)。1890年の抑圧の嵐の中、リオのあるグループが、鉄道の終点、つまり当時の文明の果ての地であったサンパウロの田舎町ボトゥカトゥに流されている。しかしながらバイーアからビンバの弟子たち(ダミアン、ガヒード、ペリス)がカポエイラ普及の興業に訪れた1948年までにサンパウロ市内にはカポエイラは残らなかったようだ。彼らの一人によると、「観衆の反応は素晴らしかった。客は私たちの試合に酔いしれた。パカエンブーのスタジアムがいっぱいになった。それは偉大な見世物だった」。サン・ジョアン通りの人気バー「ジュカ・パト」のオアーナーだったジャコブ・ナウムは、1949年、今度はビンバ本人を他の5人の弟子たちとともに招く手配をした。彼らが言うところの「ビンバの息子たち」は、カポエイラ・ショーに加えて、2つの懸賞試合にも参加した。そこで彼らはサンパウロのチャンピオンと対戦することになった。アンドレ・ラセーが強調するように、これらの試合の結果は、観客をより盛り上げるべく事前に打ち合わせされたものだった。

 1年後、エスドラス・ドス・サントス(メストリ・ダミアン)は、空軍士官の訓練のためにサンパウロにやってきた。そこで50人ほどにカポエイラを教えていたが、1951年にグアラチンゲタに移転することになり止めるざるを得なかった。
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# by brasilia70 | 2012-05-09 22:31 | 久保原
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 メストリ・ダミアゥンはまた1955年、カポエイラでは初めてとなる、テレビでの(TV・ツピ)エキジビションとインタビューに責任を負っていた。
1950年代を通してジャーナリストのアウグスト・マリオ・フェレイラ(Guga)はサルバールでクラスを受講し、メストリ・ビンバによる「Graduate(修了生)」の免許状を授与された。そして都市で一応のカポエイラの練習と指導を続けた。
しかし定期的なカポエイラの指導が再開されたのは、やっと1950年代になって、もう一人のバイーア出身者、ジョセ・ジ・フェレイタスが到着したときだ。ヴァルデマル・アンゴレイロも、メストリとして認識されなかったものの、にもかかわらずカポエイラ団体を立ち上げた先駆者の一人だ。
当時のサンパウロはリオ・デジャネイロ以上に、貧しい東北部から何千人もの移住者を引きつけていた。アルミール・ダス・アレイラスによると、こうした北東部出身のカポエイリスタの大半は、最初の例にあげた芸術性というものに頭を悩ませたりはしなかった。それでも日曜日に移住者たちが家や公共の広場で出会ったとき、彼らは自発的にホーダに加わった。そうすることが遠く離れた故郷を祝福するための方法の一部になったのである。今では伝統的なものになった共和国広場の路上ホーダはこのようにして始まった。

 多くの者は暇な時に単なる遊びでカポエイラをやった。しかしカポエイラが収入を補てんする手段、さらには生活費を稼ぐための手段にもなりうるということを発見した者も何人かいた。
最初のカポエイラ教室が、キッド・ジョフリのボクシング道場のような格闘技の練習場で催された。(キッド・ジョフリ、最軽量クラスで2階級制覇した世界チャンピオンのエデル・ジョフリの父親である。)
 60年代にサンパウロに住みついた、一団のバイーア出身のメストリたちは、定期的なカポエイラの練習を都市に植えつけた、先駆者の中核を構成した。スアスナ、ブラジリア、ジュエル、ギルヴァン、パウロ・リマゥン、シルベストリ、アナニアスたちである。70年代ではアイルトン・オンサやアコルデオンたちである。
 彼らのうち何人かはアンゴラスタイルの著名なメストリの弟子であった。ブラジリア、アナニアスはカンジキーニャの弟子であり、パウロ・リマゥンやシルベストリはカイサーラの弟子であった。
その一方でアイルトン・モウラやアコルデオンのように、ビンバのヘジオナウ一派の指導を受ける者もいた。
 スアスナはバイーア南部の出身であるが、そこでアンゴラとヘジオナウの両方を習得した。アンゴラはメストリ・スルルともに習い、ヘジオナウは当時イタブナで教えていた2人のビンバの弟子たちに習った。サンパウロにやって来る前にサルバドールのビンバの道場で一時期を過ごしたこともあった。
 リオからはヴァルデマル・パウリスタとパウロ・ゴメスがやって来た。ゴメスは元々バイーアの出身で、当時リオに住んでいた、アルトゥール・エミージオの弟子になった。

 当初、数多くの格闘技が生徒を奪い合おうとする都市において、常設のカポエイラ道場を設立することはたやすい商売ではなかった。70年代にサンパウロでカポエイラを習得したメストリ・オウサードは当時を思い出してこう述べている。
「偉大なるメストリたちは大いに苦しんでいたよ。僕らは訪問者がやって来るのをずっと待っていたんだ。一人来ると、そいつは神様のごとく扱われたね。」
 
 70年代まで前述のメストリたちは、大都会サンパウロ(自身のスローガンによれば「成長が止まることのない」)中に配置された9つの道場で教えていた。
 バイーア出身者が大都会で直面した様々な困難を一因として、サルバドールのカポエイリスタたちを分断することになる、ヘジオナウとアンゴラの間の対立がいく分緩和された。北東部出身者、とくにバイーア出身者はしばしばサンパウロで差別を受けたものだが、彼らの移住者としてのアイデンティティは初期の段階での分断を乗り越えた。
 レティシア・ヘイスの観察によれば、彼らのすべてが自分たちの故郷であるバイーアの雰囲気をアカデミアに再現しようとしていた。メストリたちは自分のグループに「イタパリカ島」「ビバ・バイーア」「バイーアの魔術」「ペロリーニョの坂」「アバエテの伝説」といった名前を付けた。アカデミアの壁にはサルバドールの街やバイーアのメストリの写真を貼った。

 メストリ・スアスナはヘジオナウとメストリ・ブラジリアによって形作られた人物であり、カンジキーニャの弟子だった。そしてグループ「コルダゥン・ジ・オウロ」に力を注いだ(「黄金の帯」第4章、ビゾウロの有名な魔術を参照)。コルダゥン・ジ・オウロはブラジルで最も成功した団体のひとつとなった。
 スアスナはカポエイラを一連のLPに録音した。レコードは新興市場を活気づけ、70年代、80年代には国中のあらゆる世代のカポエイリスタがその音に合わせてトレーニングを行った。
 スアスナはまた大都会サンパウロにやって来た多くのバイーア出身の若者に援助を施した。この点を指して、彼の家は「北東部者の相談所」と呼ばれた。
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# by brasilia70 | 2012-05-08 22:30 | アメイシャ
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 スタイルという観点から見ると、サンパウロ発のカポエイラはすぐに独自の個性を獲得した。メストリ・ブラジリアはサンパウロのカポエイラの最も卓越した、代表者であるが次のように述べている。

「アンゴラもヘジオナウもサンパウロでは継承されなかったね。リマゥンやシルベストリ、それに私のように何人かのメストリはアンゴラをやった。またアイルトン、スアスナ、それにパウロ・ゴメスのようにヘジオナウをやったメストリもいた。そして結果として出てきたのは別のカポエイラなんだよ。つまりアンゴラでもヘジオナウでもないんだ。全く異なったものになったんだよ。」

 すぐにサンパウロ生え抜きの第2世代のメストリたちが現れた。満を持して空手からカポエイラに転向したデジャミール・ピナッティ、それからヴァルデノル、グラッドソン、ゼ・ペレイラ、タンザ、コヒスコ。
彼らのようなサンパウロ生え抜きのメストリたちに加えて、さらにメストリ・アルミール、ミゲール、ケヌラといたバイーア南部からの移住者たちが指導を始め、自分のグループを立ち上げた。メストリ・グラッドソンはカポエイラをサンパウロ大学に紹介した。そして1970年代に最初の道場をサンパウロ州の内陸部に開設した。
 リオ・デジャネイロでもカポエイラは教育のある若い中流階級に意義のある浸透を開始した。
 60年代末、カポエイラはサンパウロ大学のあらゆる世代の学生、少なくとも左翼思想に共感を抱く学生たちにとってはブラジル固有の文化を代表するものとなった。左翼学生たちの崇拝者であるジェラルド・ヴァンドレは1968年に左翼の反逆の聖歌となった「花について話さなかったと言わないために」を書いた。そして「いかにしてカポエイラが戦うか」についての歌も書いた。

 1968年の学生運動を厳しく弾圧した後に、軍は再びカポエイラに目を向けた。反逆者たちを根絶し、市民社会をコントロールするための計画の一つとして、軍政権はカポエイラの国技への変化を促した。がそれだけではなく増加するカポエイラ団体を掌握することもしたかったのである。
 1962年に軍はリオ・ボクシング連盟の中に、ブラジル国技(カポエイラ)部門を創設することに成功したが、その前にもカポエイラを制度化する試みはいくらかは行われていた。

 1968年8月、連盟は第1回カポエイラ・シンポジウムを開催した。そこにリオのスポーツやカポエイラの指導者ばかりではなく、ジョアン・リラ・フィーリョ首相までもが参加した。
主催者の目的とするところは、カポエイラの技術を統治すること、徐々にでも対立するスタイルを統合すること、そのための規則について合意に至ることであった。
 ほとんどの出席者はカポエイラを民族文化としてではなくスポーツとして運営されるべきであると主張した。(特にシンポジウム議長のラマルティネとデカニオ博士。)
少数の対立する声(ジョアン・リラの声も含む)は、カポエイラは民族文化であり続けるべきだと主張した。
 しかしながら、アンドレ・ラセが報道陣に明らかにしたように、ほとんどのカポエイラの指導者は不幸にもボクシング連盟に従属しなければならず、予算もままならなかった。そしてカポエイラ独自の連盟創設に触発されたのである。

 第1回カポエイラ・シンポジウムは結局結論には至らなかったため、ブラジル空軍がスポンサーとなり、フェルセン・ブラーガにより第2回カポエイラ・シンポジウムが組織された。ブラーガは50名以上ものメストリや指導者が異なった州から参加することに尽力した。
しかし最も際立った出席者であるメストリ・ビンバは会の半ばで立ち去った。なぜなら十分な知識を持たない人々が自分の芸に近づいてくると感じたからである。

 当時の軍政権は、上級役人が市民社会の中で指導的機能を継承することを奨励していた。とりわけスポーツの連盟やその傘下組織である国家スポーツ評議会における指導力である。

 さらなる会合と圧力を経て、ついに1972年、ブラジル・ボクシング協会による「カポエイラの技術的規則」の採用に至った。
協会は公認の蹴り技、倫理、ユニフォーム、競技とその判定、および生徒のレベルの基準についての正確な規則を宣言した。後者の生徒のレベル基準は、ブラジル国旗の色(白、緑、黄、青)から想起された帯(コルダゥン)によって識別される。
すべての州のカポエイラ連盟もその後すぐに同様の規則を採用した。
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# by brasilia70 | 2012-05-07 22:29 | アメイシャ
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 1970年代までに取られた、カポエイラの発展にとって決定的に重要だったことは、1974年のサンパウロ・カポエイラ連盟の創設だった。サンパウロにおける第1世代、第2世代のほとんどのメストリ達(オンサ、スアスナ、ブラジリア、ピナッチなど)がそこに参加した。彼らはアカデミアを維持するために日々奮闘している状況へ大きなサポートになるだろうと期待していた。もし連盟がその機能を果たしていたら、それは同時にカポエイラの現代化に貢献し、カポエイラを競技スポーツへ変える傾向を強化した。毎年連盟によって開催されたトーナメントはその発展にとって重要な意味をもった。スポーツ選手のようにカポエイリスタたちはグループのロゴの入ったまっ白いユニフォームを着てスタジアムを行進した。彼らはブラジル国旗とサンパウロ州旗に、ヘジオナウ式のあいさつである「サウヴィ」と言って礼した。試合はボクシングに似て性別、年齢、体重別にカテゴリー分けされた。審判は、有効攻撃、反撃の数をカウントし、ハステイラやチゾウラといった技には2ポイントが与えられた。相手も、転はされたり、エリア外に出た場合には減点された。そこではビリンバウではなく、審判の笛が試合の開始を告げた。競技者たちは蹴りを連続で繰り出し、ジンガはほとんど使われなかった。

 当初は殴る以外のほとんどの動きが認められていたが、カベッサーダで事故が起こってから禁止された。ゲームは急激に管理されるようになり、後半部では特定の動きをさせられ、できなければポイントを失うことになった。トーナメントの開催がサンパウロでカポエイラを成長させたことは疑いない。「それらを好きでない人たちもいたが、それは開催された」。のちに批判することになるメストリ・ミゲウも当初は参加していた。

 連盟は、カポエイラがスポーツ種目として確立することに寄与したばかりでなく、ブラジル体育として制度化に重要な役割を果たした。たとえば連盟に属するグループは練習の前と最後に「サウヴィ」の挨拶を使わなければならなかったし、アカデミアにはブラジル国旗を掲揚しておかなければならなかった。対照的にトーナメント以降は、自然発生的なオープン・ホーダ、あるいは「民俗文化的な見世物」などは禁止された。

 サンパウロにおけるカポエイラの急速な成長はグループ間の争いにも拍車をかけた。メストリ・アウミールによると

 市場の獲得を目指したアカデミア間の競争は日常的なものになった。カポエイリスタ間の暴力は儀式のようなものになった。しだいにカポエイラは祭り、表現であることをやめ、カポエイリスタはアーティストではなくなり、単なる競技者、商人、興業者になり下がり、そこでのカポエイラは暴力を消費するための商品にすぎなかった。その過程でカポエイリスタ達は自分たちが分断され孤立していることに気づき、カポエイラがすでに喜びではなく、生計を立てるための義務になってしまっていると悟った。

 アウミール・ダス・アレイアスはスアスナの生徒で、第2世代の若いバイーア出身のメストリ達の一人だった。彼は、サンパウロ連盟とは距離を置く形で自分たちのグループを維持していた。彼はカピタゥン・ダス・アレイアスの創立者のひとりであり、この名前はバイーアのストリートチルドレンを描いたジョルジ・アマードの小説にちなんでいる。連盟に属していたメストリ達がカポエイラを社会的に認知させ、ブラジルの格闘技として確立させようと奮闘していたのに対し、カピタゥンは社会システムと戦う「抑圧されたカポエイリスタ」たちの統合を試みていた。
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# by brasilia70 | 2012-05-06 22:28 | 久保原
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 彼らカピタン・ダス・アレイアスにとってのカポエイラとは、ブラジル人労働者階級が自由を獲得するための手段の一つであることにあった。結果としてカポエイラはスポーツに非ず、アフリカ系ブラジル人の伝統文化の一部であり一種のアートであったと強調することが重要であった。
 それに基づきカピタン・ダス・アレイアスは連盟の認定するコルダン制度・・・東洋武術から着想を得て、ブラジルのナショナルカラーに由来する・・・を廃止した。彼らは新たな進級制度を、奴隷がその身から自由を獲得するまでに経過する過程に基づいて創案した。
 奴隷:鎖 
 逃亡奴隷:ロープ
 解放奴隷:シルクスカーフ
 カピタン・ダス・アレイアス:前の三段階のすべてを合わせたもの
 これはカポエイラを学ぶことが社会的・政治的意識の自覚を促すというカピタン・ダス・アレイアスとしての視点が反映されている。 そして最後の段階に達した者は自らを取り巻く圧制的環境において生き抜く術の全てを獲得するに至る。
 軍事独裁政権の圧政下、カピタン・ダス・アレイアスは‘文化的抵抗’の砦としてアーチストやインテリ層からの支持を集めた。 カピタン・ダス・アレイアス本部は北東部伝統芸能団とのショーとブラジルのポップミュージシャンとのコンサートを開催しポップカルチャーの場へと進出、M.アウミールには連続テレビドラマの出演・自伝の執筆の依頼が舞い込んだ。 精神病医学者ロベルト・フレイリは彼の提唱するソーマテラピーによってアウミールがカポエイラを統合することに協力した。 カピタン・ダス・アレイアスは政治情勢や軍事計画によって巧妙に仕組まれたスポーツ化に迎合することなく、いかにカポエイラに新たな意味を付与することが出来るのかを身を持って示した。

 サンパウロ連盟の普及するカポエイラとは別の道を選んだもう一つのグループカチヴェイロ(隷属の意)は6人のメストリ達(全員がバイーア南部からの移住者でうち5人はスアスナの生徒であった)によって70年代の終盤に創設され、80年代中頃急成長を遂げた。 なかでも飛び抜けていたのは若き日の何百回もの連続キックのトレーニングを経て‘相手と一切接触しないカポエイラ’の境地を開眼したメストリ・ミゲウであった。 カチヴェイロはカピタン・ダス・アレイアスと共に連盟の‘勇猛な’カポエイラからの批判的評価を分け合うこととなったが、‘カポエイラは人種表現の形式として理解されなければならない。’との見解を示し両者は等しく連盟の傘下に組することを拒絶した。 彼らは、彼らの言うところの‘‘スポーツ化によって失いつつあるカポエイラのアフリカ起源性’’の回復を望んだのだ。カンドンブレに深く根ざしたカポエイラを熟考し、当然の帰結として特定のオリシャーを意味するコルダンの色を進級制度に適用した。
 緑・オショシ
 茶・オムル
 黄・オシュン
 紫・シャンゴ
 青・イエマンジャ
 赤・オグン
 最高位には白・オシャラ
 カポエイラの神聖化とアフリカ回帰の試みはサンパウロほか各都市で発展する新たなブラックムーブメントと並行して発生した。事実、MNU-黒人統一運動(Movimento Negro Unificado)は1978年カチヴェイロと同年に創設されている。 カチヴェイロを貫く哲学は、アフリカ系ブラジル人の遺産としての重要性だけでなくブロコ・アフロのようなカーニバルグループから宗教儀式にまでの広い範囲にわたる民衆の生活慣習まるごとのアフリカ回帰化の試みをも繰り返し主張する時代の流れに一致していた。最も多様な教義を包括し大衆に広く親しまれるウンバンダもまた1980年代の半ばにアフリカ回帰化の道をたどっている。
 レティシア・ヘイスは、社会的・政治的変革集団を支持するより以上に個々人が意識の向上に努めよと主張するカチヴェイロを擁護したが彼女もまた、例え違う意味合いにおいて運用することを仮定したとしても練習者の中にも混乱を招いくほど連盟のコルダンと酷似する色を適用した事実には注目した。
 1985年、メストリ・ミゲウはサンパウロにおけるカチヴェイロ独自の基礎として拠るべきカポエイラの伝統を老メストリ達から学ぶためにサルヴァドールへ移住した。当時にあってもバイーアは未だに確かな伝統に基づいたカポエイラ更にカンドンブレをも保持しており、この移住によってアウミールはサンパウロをはじめ各地へ展開するカチヴェイロの在りかたを担保する新たな正統性の確立を得た。
 カチヴェイロのスタイルの変遷は、より先鋭的なアフリカ伝統文化回帰志向に基づき再構築されたアンゴーラスタイルはじめ他の多くの事例と同様にアフリカ回帰化の意味合いに拠ってなされ、その復古的志向において同根を持つ。 このスタイルの変遷がブラジル最大の都市を包む気運とまたその他のいくつか理由もあいまってカチヴェイロの躍進に寄与。1990年代の終わりには100人を超える教師陣とメストリ達を擁し国内7州世界9か国に展開を遂げ、カポエイラ・ブラジル連盟(CBC)へも加盟した。
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# by brasilia70 | 2012-05-05 22:27 | グランジ
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 そのほかの州
 1970年代、80年代を通じてカポエイラはブラジル全土に広がっていった。今日カポエイラはブラジルのどんな小さな町でも教えられている。その拡大のプロセスについてはまだ描かれ切っていないし、何が続いたかについてもごく概略が語られているのみである。すべての州や町で現代のメストリ達は、その先駆者たちとの系図的つながりをたどる。先駆者というのは必ずしも先にカポエイラを始めたとか、パフォーマンスをしていたというわけでなく、アカデミアを開き、その地の第1世代の生徒たちが指導者になるまで育て上げた人たちを言う。たとえばブラジリアではエリオ・タボーザに多くを負っている。彼は1960年代に教え始め、ズル、アジウソン、バルト、ポンボ・ジ・オウロ、シバタらを育てた。

 地元のカポエイラの伝統が存在したパラーやマラニャン、ペルナンブーコなどでは、どの程度までそれらの伝統が現在のカポエイラに影響を与えているかははっきりしていない。たとえばサン・ルイスでは20世紀にいたるまでストリートの喧嘩スタイルが残っていたようだ。口頭伝承では、ルシエル、カランゲイジョ他、何人かの荒くれ者の名前が伝えられているにすぎない。しかし状況は1966年にメストリ・カンジキーニャが彼のグループ・アベヘ(ブラジリア、カレカ、サポ)を引き連れてやってきて、サン・ルイスとバカバウで公演をしたときに変化した。ジョゼ・サルネイ知事は公邸での公演を絶賛し、マラニャンの地でカポエイラを教えるためにサポを招いた。サポはこうしてサン・ルイスに移住し、1982年の死までその地でカポエイラを教えた。ボクサーでもあった彼は、機能的なカポエイラを教えたが、それでも彼のカポエイラは伝統的な要素も残していた。彼は常に自分がカポエイラをマラニャンにもたらしたと話していたし、実際、彼がその教え方を確立したのは確かだ。
今日マラニャンのほとんどのメストリ達はサポとの何らかのつながりを主張する。たとえ彼らのスタイルがその後大きく変化し、そのうちのいくつかはアンゴラに転向した今日においても。今日サン・ルイスには少なくとも30のグループが存在し、地方に行けばさらに多くのグループがある。

 地元にカポエイラの伝統がなかった地域においては、最初はショーやパフォーマンスを通じて広まって行った。多くのメストリたちがブラジル南部にカポエイラ公演に出かけたが、教えるためにその地にとどまるものはほとんどいなかった。たとえばパラナ州の州都クリチバに最初のアカデミーがオープンしたのは1970年代初頭にヴァジーニョとエウリーピデスによってだった。リオでメストリ・パウラゥン(ミンチリーニャの兄弟)に学んだブルゲイスは、1975年にクリチバに移住し、ムゼンザ・グループを設立した。寒さ、財政、ヨーロッパ文化ゆえのカポエイラに対する偏見など、当初は苦労を重ねたが、ムゼンザはその後25年間に急速に成長し、ブラジルで最も大規模で組織立ったグループの一つになった。彼らは定期的なイベントを開催し、独自の会報を発行し、6カ国語によるwebサイトを開設し、12を超えるレコードやCDをリリースしている。
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# by brasilia70 | 2012-05-04 22:27 | 久保原
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1996年には、23人のメストレ、26人のコントラメストレ、23人のインストラクター、51人のモニトールそして9人の練習生がムゼンザ-主に南部だが、マトグロッソ州、セアラ州や海外も含む-で活動していた。

 ムゼンザに見られるようなカポエィラのグループの印象的な成長は、カポエィラがブラジルという地域で、経済の発展と共に比較的容易に拡大できたということを証明している(南東部や南部)。ここでは、金銭的に余裕のある生徒が比較的多かったので、それがどんどん先生たちをカポエィラのプロとならしめていった。カポエィラ講師という職業は、こうして、とりわけきちんとした教育を受けていないような黒人や貧乏な男性にとって、より魅力的なものとなっていった。仮にサルヴァドールのような都会では、カポエィラは、“民族的な専門職”となったが、南東部ではそのようなことにはならなかった。それどころか、メジャーなグループのいくつかは、白人とみなされているメストレによって率いられていった。

 カポエィラの経済市場との統合は、スタイルやその意味に影響を与える芸術面や、生徒、講師、メストレ間のつながりにも重大な効果をもたらしている。プロの講師陣はお互いに市場をめぐって競い合いもするが、そのノウハウを向上させるため、もしくは、ショーや昇段式のような利益の上がるイベントを開催するために同盟を築く必要もあった。カポエィラを教えることが社会的に通用する職業となって以降、どんどん多くの若者、とりわけ下層階級出身だったりきちんとした教育を受けていないような若い男性を惹きつけてきた。彼らにとってカポエィラは、路上ではなく市場経済で生き残るための手段となった。それゆえに、彼らの多くが、手っ取り早くお金を稼ぐために、その長いメストレとの見習い期間を可能な限り短くしたいと思っても不思議ではない。そうして、ほんの2~3年練習して、自動的な昇段システムでメストレとしてカポエィラを教え始めたりすものもいる。このことは、年老いたメストレ達にとっては、明らかに許しがたいことである。カポエィラのイベントの中で、ほとんど全ての上級者の生徒たちが自分をさもメストレであるかのように考えていることに気づいてしばしば驚かされたりもする。
“自称・メストレ”の慢心は、カポエィラは包括的な組織であるという認識の欠如ゆえに止めるのが難しい。彼の“血統”もしくは所属を通して、講師としての称号の価値を確かにする一つの方法がある。セオリーとして、メストレ達は他のメストレによってそのタイトルを与えられるべきだというものがある。もしこのケースに当てはまらなければ、その正当性を疑われるかもしれない。そのような独学者たちは、メストレカミーザがそう言われたように、“ちゃんとしたメストレを持たないメストレ”となる。しかし実際のところ、この系図の基準というのは、今日の認められたメストレ達の多くが決して正式な免状を与えられたわけではなく、もしもその証明を求められても多大な苦労を伴うことから、簡単に確認できるというものでもない。そのうえ、教えていたメストレ達の多くが亡くなってだいぶ経つので、もし、その生徒たちがメストレに値するレベルにあるとしても、メストレになれるかどうかを尋ねることは不可能となってしまった。ホーダやイベントで、身近な仲間や他のカポエイリスタからどういう位置づけをされているのかというのも同じように重要である。そして時折、何人かの先生たちは、年老いたメストレたちにイベントに参加することを拒否されたりもする。ご存知の通り、ブラジル政府は連邦区ごとにカポエィラビジネスをコントロールしようとしてきたが、うまくはいかなかった。1998年、カルドソ大統領は体育という職業を統制する新しい法律を可決させた。その法律では、どんな(その分野の)専門家でも、カポエィラであれどんな体育科目であれそれを教えるためには体育連邦議会や州レベルの体育協会が発行した体育の資格が必要となる。法律採択の前に3年間以上教えていたということが証明できるという例外もあった。だがこの規則は正式な免状を持たない多くのカポエィラを教える人達をを締め出すと思われることから、この法律と施行は、近年、白熱した議論と数々の抗議の対象となってきた。
ここ40年の間にカポエィラ組織として大きく2つに分かれるようになってきた。グループと連盟だ。メストレもしくはプロフェソールが率いる独立したまとまりをアカデミアというが、通常グループとは、メストレ一人もしくは複数のメストリやプロフェッソールが複数の拠点でレッスンをしているアソシエーション(協会)の形をとっている。その代わり連盟は、グループ同士の組織的なつながりを確立させようとしている。
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# by brasilia70 | 2012-05-03 15:17 | Alface
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 州連盟、とりわけ最近はブラジル連盟は、ローカルグループにガイドラインやサポートを提供することで、カポエイラを「組織化する」ことを目的として掲げた。サンパウロやリオといった州では、連盟の目的は比較的うまくいった。しかしこれらの地域においても、連盟のような上部団体はありがたくなく、恩着せがましい官僚主義や政治的な利用に憤慨する声もあった。カポエイラが今日の規模にまで成長したのは、連盟を通してではなく、グループを通してだった。高まりつつあった国家統合や国内移民という状況下で、すべてではないにせよほとんどのグループは、地域的、国家的なレベルで拡大して行った。このように連盟を迂回して成長していた。

 多くのグループは独自のアイデンティティーを確立しており、自分たちのスタイルや哲学、練習方法に忠実な支部を他の州にも広げたいと考えていた。このような各グループ独自のスタイルのほうが、画一的で管理された連盟の在り方よりも、カポエイラのアイデンティティー確立の在り方としてふさわしかった。グループはまたそれぞれの運営方式を持っていたが、州のスポーツ組織の官僚的な在り方と比べると、それは最小限で、フルタイムの事務員がいるケースはほとんどなかった。連盟は常にグループを抱え込もうとし、統合を呼び掛けた。しかしながら参加グループ同士の意見対立、運営をめぐる避けがたい権力争いは、多くのグループを遠ざけ、脱退するグループも出てきた。たとえば近年のブラジル連盟における権力抗争でメストリ・スアスナやダミアンたちがメストリ委員会から脱退している。パウロ・ゴメスはACAESPを設立し、それは1984年にブラジル・カポエイラ協会(ABRACAP)に発展した。州連盟もブラジル連盟も、現代のカポエイラを組織する統合組織とはなれなかった。ルイス・ヘナトは「カポエイラが選んだ組織形態はグループという単位なのは明らかだ」と述べている。

 しかしグループ間の競争も激化してきた。とりわけ同じ地域で展開するときは。たとえばあるプロフェッソールがグループを抜けて自分のグループを作ったケースなど、個人的な敵意もグループ間の抗争の火種となった。ライバルグループのメンバー同士がオープンホーダで顔を合わせるとしばしば表ざたになった。時に起きる暴力事件の背景にはこのような問題もあると思われる。

 グループを拡大する市場戦略に工夫を凝らすグループもあった。たとえば彼らは進出したい地域ですでに活動しているプロフェッソールを雇うということを考えた。あるいは有名なメストリを説得してグループに引き入れようとした。たとえカポエイラのスタイルがかなり違っているケースでも。古いメストリ達も争いに巻き込まれた。彼らはイベントに招かれたが、あわよくばグループの後ろだてになってもらえるかもという期待が込められていた。当時古いメストリ達はカポエイラの伝統継承者として重要な存在と認められていた。バイーアには60歳を超えるメストリ達が大勢いるが、少なくとも現在までのところ、まだ現役で実権を握っている。彼らの存在は、シンボル的な利益をもたらし、そのグループの真剣さを保証する意味をもった。すべてのカポエイライベントの主催者は、有名なメストリ達をゲストとして招きたいと考えた。このことが世界中のイベントに招聘される特権的なメストリの出現を導いた。

 まとまりのない発展の仕方をしてきたため、カポエイラ人口の正確な数を言うのは難しい。公式な数字としては、1996年時点で大サンパウロ圏で874か所の拠点があるというデータがある。各グループの構成については、一人のメストリに数人の生徒が付いていることもあれば、数か所に散らばった数人の指導者に数千人の生徒が付いているものまで様々だ。たとえばビリバズーは、ブラジリアに1972年、メストリ・ズールーによって設立されたが、1997年現在、9人のメストリ、10人のコントラ・メストリ、16人のインストゥルトールに3000人の生徒が付いている。
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# by brasilia70 | 2012-05-02 19:30 | 久保原
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カンデイアス・デ・カポエイラはM.スイノによって率いられ、1991年に立ち上げられた。ゴイアス州に本部を置き、1999年には4人のメストリ、8人のコントラメストリ、59人のその他の先生、5000人の生徒会員を抱えるものとなった。カポエイラブラジルは1989年M.サビア、パウラオ、ボネコによって立ち上げられ、その後10年でブラジル国内のみで8000人のメンバーを数える程となった。
 このカポエイラの発展は、地理的要因、階級、肌の色のみならず、性別の差さえ超えて広がっていったため、大変印象的なものである。第4章で見たように、カポエイラは常に男性の娯楽であった。女性は、時には観客さえ、女性のみで例外的にプレイされていた。M.パスティーニャは、女性が彼と共に練習することを体型的に促進した最初のメストリであり、多くの他の先生も共に従った。それにも関わらず1990年代までバイアで練習を始めた女性はほとんどおらず、バイアよりも性別差の関係をより根源的に変えていったブラジル南東部、西ヨーロッパ、アメリカのカポエイラグループにおいて女性参加者を拡大させていった。どの地においても、他の男性生徒や先生との関係は簡単ではなく、順応した女性と同数の女性がしばしば離脱していき今も離脱したままとなっている。現在、カポエイラを練習している女性はほぼ全体的に順応している。すべてのコンテンポラリーカポエイラグループに女性が含まれ、メンバーの10から50パーセントをを構成している。
 最高の女性カポエイリスタ達は現在、確実にメストリの数を増やしていく中で、たとえそのレベルでは依然少数派だとしても、他と同等の地位を得る事を成し遂げている。この理由として、女性インストラクターは,若い世代のカポエイリスタのモデルとしての大事な役割を担っている事がある。メストリになった最初の女性は、1980年にM.カンジキーニャの元を卒業したファティマ・コロンビアーナ(M.シガナ)である。彼女はサンパウロとリオにおいて、現在までに何百人の生徒に対してカポエイラを教えており、カポエイラのリオ連合体の代表となっている。たとえ彼女が、彼女の仕事に対する男性からの偏見と今でも戦わなければならないことを認めても、彼女のキャリアは今日のカポエイラ界で女性が地位を得たことを表している。1981年に19才でメストリになった別の女性先駆者であるエドナ・リマは、同時にショウトウカン空手の黒帯4段も所持している。彼女は現在ニューヨークで教えており、最近グループアバダと合併した。カポエイラアンゴラでは数人の女性(ジャンジャ、ジャララカ、パウリーニャ)が同じくコントラメストリの地位を勝ち得た。これら及びその他の女性の先生は一般に、彼女らが所属するグループを越えて広く知られている。カポエイラ雑誌は、レギュラーコーナーとしてカポエイラ界の女性のために紙面を割いており、新しい女性カポエイラスターのレポートやインタビューが掲載される。幾人かの女性インストラクターは自分のグループで女性は尊重され同等の権利を持っていることを強く主張している。
 このようにコンテンポラリーカポエイラが性差の間に平等を与えた一方、雑誌においては今でも、女性の体は男性読者を引きつける為か、もしくはカポエイラ道着の広告として使われる。男性カポエイリスタ間でマッチョ信仰が継続している事で、女性カポエイリスタからの不満は収まらない。ただこれら性別の問題を解決していくことよりも、カポエイラは彼らに再交渉の場を与えている。そしてここでは全てのグループがそれぞれに特有の慣習を持っている。国際カポエイラアンゴラ協会のようにいくつかのグループは、カポエラ界の女性のために特別に捧げるイベントを催し、性別間の平等を強く推進している。一方、もっと主流派のグループにおいては女性の役割は未だ従属的なものとして見られている。いくらかの男性カポエイリスタは今でも、女性とは本質的に男性兵士がリラックスするための場であると言う考えに固執している。別の言葉でいえば、カポエイラの慣習は性別の問題を自覚させる事はできたが、何世紀にもわたって一般に広まっていた家父長制の態度を一晩で変える事は不可能であるということだ。
 さらに加えると、ここ数年、カポエイラの習慣が教育の中にも大変広まっている。実際これまでもカポエイラは教育の手段であった。しかしそれは特定の社会の民族的な集団に限られており、公的な立場からは眉をひそめられていた。
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# by brasilia70 | 2012-05-01 19:28
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 20世紀初頭以来多くの作家、スポーツマン、政治家が「改良された」カポエイラの教育的な可能性を強調してきたものの、それが学校の体育や課題科目として広く普及したのは1980年代以降のことだった。この方面で2つの先駆的な存在は、ブラジリアのCIDとリオのCIEPsだった。今日カポエイラは、初等教育、中等教育機関ほか、多くの教育組織で教えられている。

 精神運動スキルを発達させるうえでのカポエイラの持つきわめて大きなポテンシャルは、様々な教育分野に寄与してきた。フロリアノポリスからノーヴァ・フリブルゴまでのテラピストたちは、カポエイラを視覚障害者に利用したし、一方でアナーキストのサイコテラピストたちはそのヒーリング理論にカポエイラを統合している。ソマ・テラピーを受ける患者たちは、社会の抑圧システムに対抗するためには身体的な知識が不可欠であるとして、カポエイラをすることを求められた。その創立者のホベルト・フレイレは、カピタゥン・ダス・アレイアスのアウミールにカポエイラを学び、1970年代を通じて患者たちにカポエイラをすることを奨励した。フレイレはメストリ・パスチーニャが亡くなる前に取材しており、以来、ソマはアンゴラに傾倒していく。これらの例は、いかにカポエイラが異なるジャンルの教育やテラピーに幅広く利用されてきたかを示している。

 「人種」、階級、ジェンダーの点でカポエイラが経験してきた驚異的な成長は、非常に多面的で、ときとして矛盾さえする意味合いを持っている。様々な背景を持つ人々がカポエイラに取り組み始めたことは、カポエイリスタ同士の距離の広がりを意味している。ソニア・トラヴァッソスによると、リオの中産階級にとってカポエイラはもはや独立した娯楽であるという。それに対して下層階級の者にはマクレレやサンバ・ジ・ホーダなどのアフロ・ブラジル文化とセットでとらえられている。さらに彼女は、中産階級の一部にとってカポエイラはオルタナティブにすぎず、そのことはたとえばレッスンでカジュアルは服装で行うことに表れているという。下層階級のグループや黒人のメストリが率いているグループにおいては、きちんとしたユニフォームを着用しなければならない。他方でデカニオやイタポアンが強調するように、カポエイラの普及を通じてアフロ・ブラジル文化全体がポピュラーになり、社会的に認知されるようになった。

 これほどまでに様々な文脈におけるカポエイラの広がりは、リング上の格闘技からテラピーの癒しまで幅広い目的をカバーする多様な様相の発達は、
言いかえれば、その意味が見る人や文脈によって変わりうるということだ。ここ30年間のカポエイラの急速な広がりを振り返るとき、メストリ達はしばしば「inchou」という表現を用いて、クオリティーを伴わずにただ「膨れた」だけだということがある。コントロールの行き届かない成長は、そのまとまりを脅かす。しかし「カポエイラにまとまりを」と呼びかければかけるほど、それは現時点では不可能なことに思われる。ここにいたって再びカポエイラ・アンゴラが伝統を維持しながらいかに成長するかというモデルを提供してくれるように思われる。


アンゴラの再生
カポエイラ・アンゴラは何度も消滅すると言われてきた。1930年代、Edison Carneiroは、カポエイラ・アンゴラはどんどん落ちぶれていき、遅かれ早かれその最後の一撃を刺されるだろうと言っていた。
メストレパスチーニャ率いるCECA(Centro Esportivo de Capoeira Angola-カポエイラ・アンゴラ・スポーツ・センター)や他のアンゴレイロ達は、1940年代から1950年代にその傾向をひっくり返そうと、芸術を維持するために努力し続けてきた。それでもなお、ブラジルの出版社はカポエイラ・アンゴラが消えてなくなったかのように扱ったりもした。
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# by brasilia70 | 2012-04-30 19:27 | 久保原
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1962年すでに「A Tarde」は、アンゴラをもはやサルバドール市で見ることはないだろう、と、はっきりと- 間違えだけれど-書いていた。1980年代にパウリスタマガジンが「Artes Marciais(Arts Martial arts)」という特集記事を書いたとき、チゾーラとパレードジアンゴラ(おそらくシャマーダのこと)を「もはや使われなくなった動き」と銘打って紹介していた。
かつて、ヴァウデマールとコブリーニャヴェルデがその伝統的なスタイルのホーダをできなくり、パスチーニャは眼が見えなくなり、アンゴラスタイルの存続がまたもや消失の脅威にさらされた。今はメストレとなったパスチーニャの弟子ジョアンピケーノとジョアングランジは1970年代もずっと教え続けたが、それは世の中の流れに逆らっていることであった。カポエイラ・アンゴラで生計を立てることができなくなってからというもの、ジョアングランジは教えるのを止めていた。日中はガソリンスタンドで働き、夜は旅行客向けのフォルクローレショーに出て食いつないでいた。ショーのプロデューサーは、カポエイラ・アンゴラをショーで見せるためではなく、ビリンバウとダンスをするためだけに彼を必要としているだけで、彼らは旅行客はヘジオナウの派手なアクロバットの方が好きだと思っていた。近代化に取り付かれるなかで、ヘジオナウだけが未来があるように思われた。残ったアンゴレイロの何人かは、自分たちがヘジオナウを教えるものたちと競い合うことができる唯一の方法だと思い、ヘジオナウを容認し始めた。とりわけメストレカンジキーニャはこのやり方を踏襲し、パスチーニャのアカデミーを引き継いだメストレボボーもそうした。
メストレジョアンピケーノでさえ生徒にカラーベルト(これは今日「ヘジオナウ」である明確な証と考えられている)を与え始めた。これまで見てきたように、ビンバのヘジオナウに近いリオとサンパウロのスタイルが優勢であり、アンゴラの伝統に由来するほとんどの指導者たちは、その教え方を新しく出てきた“ミックスされたスタイル”と順応することにも務めてきた。もしアンゴラが消滅しなければ間違いなく受身であっただろう。

ものごとは1980年代に急激に変わった。
ブラジル社会における黒人運動の再興とアフロブラジル文化の再評価は、ポピュラーな音楽(バイーアのブロコアフロ)や宗教(南東部の宗教ウンバンダのリ・アフリカナイーゼーション(経済や文化を外国人でなく、アフリカ人自身の手で発展せしめようとする動き))においてもっとも顕著にアンゴラの復興を可能にする普遍的な体制を作り上げた。例えカポエイラ・アンゴラが、年寄りしかしないような消滅しかけた芸術というイメージを払拭したとしても、まだ熱心に打ち込む若い世代を必要としていた。メストレモライス(ペドロ・モライス・トリンダージ 1950年生まれ)とGCAPはこの過程においてきわめて重要な役割を担った。モライスは、カポエイラの歌の中で神話としてたたえられる場所:All Saints Bay(Baia de todos os Santos)のMareアイランドで生まれ、サルバドールで育った。8歳の時、モライスの隣人が彼をCECA-彼がジョアングランジとジョアンピケーノの指導の下にトレーニングを始めたところ-へ連れて行った。モライスは海兵になり、1970年代初めリオデジャネイロへ移った。1974年、彼はすでにBelfort Roxoの北部郊外でカポエイラアンゴラを教えていた。しかも、マクレレ、サンバジホーダ、プシャダジヘジ、そしてさらにアフリカンラメント(哀歌、挽歌)のような「北東部のフォルクローレ」をカリオカン(リオっ子)に教えるグループModa-Rueを率いていた。
モライスをリオの他のバイアーノと大きく分けたところは、彼は他のスタイル-Artur Emidio(Itabunaのあるメストレの名前)の弟子やグループ・センザーラの速い(動きの)若者-と向かい合った時も、アンゴラをやり続けたところであった。彼のスタイルは、カポエイリスタ達に彼らが今まで見たことのあるものとまったく違うということを印象づけた。
M.Marco Aurelioによると、後にモライスの生徒となった人(その当時初心者)が「まったく違うカポエイラをする、とあるアフリカ人が街のホーダに来ている!」と言っており、そのニュースはすぐに広まった。サルバドールからやってきたカポエイリスタは、より儀式的でおどけたジョーゴをしようとし、主に効率的にジョーゴをするカリオカンからしばしば顔面にキックを喰らっていた。
「アンゴラはヘジオナウと似ている。ただ、ゆっくりと低い動きをフロレイオを交えて動く、という考え方が有力で主流だった。」モライスは、高い蹴りのシークエンスばかりやったりせず、常にjodo de dentro(中のゲーム)で低いポジションからも高いポジションからも攻撃できる“中に入った動き”を練習した。
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# by brasilia70 | 2012-04-29 19:26 | Alface
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  また、メストリモライスは他のカポエイリスタと違い、Rodaにたった一人ででかけたり、奥さんや生徒を数人しか連れていかない事もMarco Aurélioとその他の大勢を驚かせた。”ホーダではケンカがおこるだろう”と考える、センザーラやその他のグループのカポエイリスタは、必ず大勢でホーダへ行ったものだった。
メストリモライスは相手の蹴りを匠によけるだけでなく、尻餅をつかせるなど、相手の士気を失わせる事もできた。
カリオカのカポエイラで名を効かせていたセンザーラグループやメストリカミーザなどを相手にした時でさえ、メストリモライスは彼のスタイルでプレイする事ができた。
 アンドレラセによると、メストリモライスとメストリカミーザのジョーゴは「当時リオで見る事のできる最高のカポエイラのジョーゴであった。」と言っている。
この時期から後には、モライスの生徒の中から数々のネコ、ブムンバ、ブラガ、ジュランディールなどのアンゴーラのメストレが産まれた。
彼等は特にリオの北部の方で、確立したそのスタイルを作り上げることに多いに貢献した。そして後にカポエイラアンゴラの普及へとつながった。

  1980年10月、当時アンダーグラウンドのセキュリティーとして働いていたメストリモライスはGCAP,グルーポジカポエイラアンゴラペロリーニョを創った。
彼の目的は、大多数のバイアの伝統的カポエイラスタイルとヘジオナウスタイルのカポエイラが混ざった格闘系のそれとは区別し、カポエイラアンゴラのスタイルの確立をする為だった。
カポエイラヘジオナウの影響を強く受けたカポエイリスタ達の”カポエイラアンゴラの低いジョーゴや、遊び”は効率的ではない、などの批評をよそにアンゴレイロ達は低い動きと、床に頭をつける動きを貫いた。
これはオープンホーダでアンゴレイロの頭を(床に付いている状態の時に)蹴りたがるヘジオナウの強く影響を受けているカポエイリスタ達への挑発となった。
今日のへジオナウとの対立のある中で、アンゴラスタイルでプレイすることは危険な場面もでてくることがこれらの理由からもわかる。けれど、アンゴラはこういう物だと位置づけを周りに示してくれた強いメストリ達に感謝している。

  メストリモライスの一番弟子であったコブラマンサ(1984年にメストリになった)は1982年にサルバドールへ移った。
1981年のメストリパスチーニャの死後、多くのメストリと呼ばれていた人達はメストリであることを辞めてしまったり、ヘジオナウスタイル寄りになってしまった為、カポエイラアンゴラはなくなってしまうだろうと思われた。
(パスチーニャからの)メストリジョアオピケーノや、(メストリEspinho Remosoからの)ヴィジリオはアンゴラスタイルを伝え教える数少ない忠実な人たちであった。
ジョアオピケーノは二人の伝統的なスタイルを復活させようと熱心な生徒ジャイール・モウラとフレッジ・アブリウから支えられた。
例を挙げると、1980年に初のカポエイラのリズムとカポエイラセミナーフェスティバルがサルバドールで開催された。この時にフォーチサントアントニオで行ったジョアオピケーノのホーダは沢山の人々の興味を引きつけた。

   これを見た人々はモライスとコブリーニャマンサの復帰がサルバドールのカポエイラ界に強い衝撃を与えたことを認めている。
当時はカポエイラアンゴーラは”年配の人”のスタイルだと思われていた。しかし、モライスやコブリーニャはサルバドールにいるメストリ達よりも遥かに若く、それはカポエイラアンゴーラのそういった偏見を排除させ、カポエイラアンゴーラの未来を示していた。
GCAPはサルバドールにモライス、コブラマンサと他6名の生徒(ペペウ、ヴァーミー、ポローカ、パウリーニャ、ジャンジャ、ナチーニョ)で設立された。
10年後、グループは少なくとも80人の生徒達とコントラメストリになった初期の生徒6人がいた。

  グレッグ・ダウニーは、GCAPがヘジオナウに対して大変効果的であった反撃や体の動きの練習について、沢山の資料をくれた。彼はGCAPの3つの動きに焦点を置いている。”特徴のある手足の動き(逆さまの動き)”、”柔軟な体”、そして”壊れた動き”である。
グループの目的はカポエイラアンゴラを練習することだけではなく、カポエイラアンゴラが元々あったそれの様に輝かしいアートであることを伝え、また派手なアクロバットの動きで勢力の大きかったヘジオナウに押されてカポエイラを辞めた古い世代のメストリ達をまたホーダへ戻す為にも、カポエイラの歴史、黒人奴隷の歴史やその広がりを研究することだった。
それらはメストリジャオグランジを6年間のブランクを経て、またGCAPで教えることへと繋がった。
1985年に行われた”カポエイラアンゴラワークショップ&エキシビジョン”はこのグループの目的を果たすことへ大きく貢献し、GCAPは更に沢山の人々に知られることとなった。





 
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 GCAPと既存のアンゴラグループとの違いは、そのスタイルだけでなく、彼らの政治的姿勢にあった。「高学歴で政治家活動をしていたアフロ・ブラジル系の生徒たちから情報提供や勧めを受けて、メストリ・モライスは、アンゴレイロ復興の急進的で政治的なスポークスマンとして現れた」。人種主義を精力的に告発し、差別と戦う手段としてカポエイラを使おうと考えていたGCAPは、自身をブラック・ムーブメントの一部として位置付けていた。サント・アントニオ要塞は、歴史的な街の片隅にあるかつての刑務所だが、そこは無断居住者たちに占拠されてから荒廃し、民衆文化の拠点になっていた。そこには複数のカポエイラ・アンゴラのグループだけでなく、アフロ・ブロック、イレ・アイエーの練習も行われていた。このためアフロ・ブラジル系の人々の誇りを主張する拠点となっていた。このためサント・アントニオ要塞は、市当局から常に目を付けられてきた。市としては利益の上がるショッピングモールに変えたいと考えていた。

 GCAPの内部組織も、黒人解放という重要な目的を反映したものだった。様々な作業委員会(記録、資料、宣伝、企画・調査、経理)が特定の仕事を担当していた。各委員会の代表とメストリ達で審議会を形成し、それがグループの代表となっていた。彼らは総会を開き、年間の活動を決定していた。メストリの協議会が伝統の維持と指導の責任を負っていた。そして他の黒人運動関連の団体の代表たちからなる諮問委員会が設置されており、グループに様々な助言を与えていた。結果としてGCAPは、通常のカポエイラ団体の視野を超えた、幅広い活動を展開することができた。たとえばアシェ・プロジェクトとの共同で、ストリート・チルドレンたちにカポエイラ・アンゴラを教えることができた。GCAPのメンバーは、アフリカ・オリエンタル文化研究所のバンツー文化やキコンゴ語講座で、特別生徒のグループを作っており、そのほかのブラック・ムーブメントのイベントなどに参加していた。

 独自のスタイルを形成し、メッセージを発信するという意味でのGCAPの成功は、アンゴラの復興に寄与したそのほかのグループに影を投げかけた。
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# by brasilia70 | 2012-04-27 19:18 | 久保原
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バイーアでは、保守派である他のメストリ達が、自分たちのコンセプトに従いカポエイラ・アンゴラを教え続け、あるいは再び教え始めた。それは、しばしばGCAPがアンゴラの通説として確立しようとしたものとかけ離れていることがあった。こうして、ボア・ジェンチ、ボカ・ヒーカ、ボボ、ボラ・セッチ、クリオ、ジョン・ペケーノ、マリオ・ボン・カブリト、ノー、パウロ・ドス・アンジョスといったメストリ達が、サルバドールにおいてアンゴラの多様性を保持することに貢献したのである。彼らの生徒達の何人かは、ブラジルの他の都市でカポエイラ・アンゴラを教え始めた。例えば、ジョン・ペケーノの元を卒業したメストリ・ジョゴ・ジ・デントロとペ・ジ・チュンボは、サンパウロにアカデミアを開いた。メストリ・パウロ・ドス・アンジョスの生徒であるメストリ・ヘネ・ビッテンコルチにより1986年に創立され、率いられているアソシアサオン・ジ・カポエイラ・アンゴラ・ナビオ・ネグレイロ(ACANNE)も、カポエイラ・アンゴラの復興が目的であり、以来ブラジルの様々な州で、核となる支部が創立されている。メストリ・コブラ・マンサや他のメストリ達とフォルチ・サント・アントニオ(サント・アントニオ要塞)で練習を始めたメストリ・ラエルシオ、ホベルバゥ、ホザゥボは、1986年にフィーリョス・ジ・アンゴラを創立した。1990年代、サルバドールのモライスの元を卒業したメストリ・コブラ・マンサと多くのコントラ・メストリ達(ボカ・ド・ヒオ、ジャンジャ、ポウリーニャ、ポロカ、バゥミール)は、ブラジル南東部や海外に自分たちのグループを立ち上げる為、GCAPを離れていった。

 このように、さまざまなルートを通じ、カポエイラ・アンゴラは再びブラジル全土に広まったのである。そのスタイルは名声を取り戻し、元々は古来バイーアのアンゴレイロに直接属していなかったグループによってさえ、注目され、取り入れられた。私が示したように、少なくともGCAPの政治的課題の一部を共有したカチベイロのようなサンパウロのグループも、アンゴラ・スタイルを目指していった。リオでは、有名なカシアスでのホーダが、ほぼ完璧にアンゴラのホーダへと先祖返りした。彼らは元々、当時ブラジル北部を席巻していたアルトゥール・エミージオのスタイルでやっていたが、1980年代より、ゲームを「アンゴラ化」した。今もなお、メストリ・フッソのようなホーダの重要な主催者達が、カポエイラをスタイルの区別なくやるように求めているものの、カシアスのホーダでは今やその大多数をアンゴレイロが占めている。

 こうして、1990年代、アンゴラ・スタイルは世間での認知度を上げていった。1993年には、存続していた古来のメストリ達が結束し、ブラジリアン・アソシエーション・オブ・カポエイラ・アンゴラ(ABCA)を創立した。アンゴレイロの為だけの、最初の統括組織である。バイーア政府は、高まりつつあるアンゴラの重要性を認め、補助金と、サルバドールの歴史的中心地に植民地時代の集合住宅を提供した。ABCAは古来のメストリ達をサポートし、彼らをアンゴラのホーダに呼び戻すためのプログラムを推進した。メストリ・ジョン・ペケーノが初代ABCA代表となり、続いてメストリ・クリオとマラが引き継いだ。しかしながら、メインストリームのカポエイラ同様、カポエイラ・アンゴラの組織化はまた、組織内での避けがたい権力争いと、方針の採用に対する意見の不一致へと繋がった。

 カポエイラ・アンゴラの発展はまた、ある米国のアフリカ文化研究者の団体と、学者達によっても後押しされた。彼らはカポエイラ一般と、特にGCAPに対し、援助を行った。ケネス・ドサールやダニエル・ドーソンといった支援者達がイベントを主催し、バイーアからメストリ達を招聘した。このことにより、逆にドーソンの信望がブラジル国内で高まることになった。GCAPによって初めてレコーディングされたCDは、1996年にワシントンのスミソニアン協会より発売された。1994年にはサルバドールで、「ファースト・ナショナル・エンカウンター」というイベントがGCAPにより主催されたが、米国やヨーロッパからも参加者が集まり、カポエイラ・アンゴラが、すでにいかに国際的かを示した。このように、カポエイラ・アンゴラの更なる発展は、その高まりつつあるグローバリゼーションと密接に関わるようになった。
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# by brasilia70 | 2012-04-26 19:17 | Jaspion
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 「世界をひと巡り!」カポエイラのグローバリゼーション 1970年代-90年代

 おそらくブラジル国外でカポエイラを紹介した最初のカポエイリスタは、50年代、60年代におこなったアルトゥール・エミージオだろう。彼はアルゼンチン、メキシコ、米国とヨーロッパを訪れた。彼はブラジル大統領のヴァルガスやクビシェッキだけでなく、アイゼンハワーやケネディにもカポエイラを披露したのだ。その後多くのブラジルの興行会社が欧米に出向き、カポエイラやそのほかのダンス、リズムを紹介した。1970年代のヨーロッパでカポエイラ普及に重要な役割を担ったのは、振付師・ダンサーのドミンゴス・カンポスとメストリ・カミーザ・ホッシャに率いられたブラジル・トロピカルだった。カミーザ・ホッシャはビンバの弟子で、当時ブラジルで最も優れたヘジオナウのプレーヤーと見なされていた一人だった。これら興行会社の多くは観客を得ることが目的で、必ずしもカポエイラを教えることには関心を持っていなかったが、結果としてカポエイラの普及に重要な役割を果たした。多くのカポエイラ指導者が、最初はこうしたショーグループの一員として海外にわたっている。その過程で興業をした地に根を下ろすことになった。

米国におけるカポエイラ

 米国ではジェロン・ヴィエイラとロレミウ・マシャードによってカポエイラが紹介された。彼らは1975年ブロードウェイで上演されていたブラジルのインディオに関する芝居『葉っぱの人々』でカポエイラを演じた。ジェロンはもともとバイーアのメストリ・ニトとエジキエウの弟子で、のちにのちにリオでセンザーラにも加盟した。同時にエミリア・ビアンカルジが主宰するヴィヴァ・バイーアのメンバーにもなった。1977年彼はダンス・ブラジルを創設し、米国中や他の国々を公演して回った。彼はニューヨークでカポエイラを教え始め、東海岸のほかの都市でもワークショップなどを行った。多くの人々が彼の動きが1980年代のブレイクダンスの大流行に影響を与えたと信じている。彼自身比較的控えめにだがカポエイラと南ブロンクスのブレイクダンスがアフリカ起源という共通性を持っていることを指摘している。彼の目覚ましい貢献度は、1990年にブルース・リーやジャッキー・チェン、ジャンクロード・ヴァン・ダムと並んで最も重要な格闘家20人の一人として殿堂入りしたことで認められた。

 ビンバのもう一人の弟子ビラ・アウメイダは、米国は西海岸に根を下ろした。カポエイリスタの中ではメストリ・アコルデオンとして知られる彼は、1979年スタンフォード大学の中流層の学生にカポエイラを教え始めた。彼は直にサンフランシスコの下層やラテンアメリカ出身者にも指導を拡大した。最終的に自身のアカデミー「カポエイラ・バイーア」を開いた。1983年にして彼は52人の生徒をブラジルへ連れて行き、サンパウロ大学で行われた大会に出場させた。アコルデオンは世界カポエイラ協会を創設し、1981年にはカポエイラに関する最初の英語の文献の一つとなる著書を出版した。アコルデオンとジェロンは、米国のカポエイラの第1世代を教えたという意味で、カポエイラの普及に非常に重要な役割を担った。1980年代には米国中でわずか4つのカポエイラアカデミーがあったにすぎない。ジェロンとロレミウがニューヨーク、アコルデオンがサンフランシスコ、エウゼビオ・ダ・シウヴァがイリノイのイースト・セント・ルイスにいた。
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# by brasilia70 | 2012-04-25 19:11 | 久保原
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だがその後、カポエイラは文字通り爆発的に広がり、今日、米国内の全ての州で教えられるまでに至った。ほとんどとは言わないまでも、多くの教師達は、より良い生活を求め故国を後にしたブラジル人であった。1980年代初頭より、米国とヨーロッパはこうした移住者達の主要な目的地となっている。彼らはブラジルの異なる地域出身で、カポエイラのスタイルも異なるが、ブラジル国内同様、海外でもヘジオナゥ・スタイルが明らかに優位を占めている。近年、米国に渡った中で著名なのは、メストリ・アメンとボネコで、両者ともロサンゼルスで教えている。1992年には、最も尊敬を集めているカポエイラ・アンゴラのメストリの一人、ジョン・グランジがニューヨークに移住し、アカデミアを開いた。彼に続いて、メストリ・コブラ・マンサやジュランディールといった著名なアンゴレイロも、それぞれワシントンとシアトルに移り住んだ。この二人のメストリはまた、インターナショナル・カポエイラ・アンゴラ・ファウンデーション(FICA)を創立し、他の都市の関連グループに対し、定期的にワークショップを行っている。

 初めて米国にカポエイラが紹介されてから四半世紀が過ぎ、今や多くの北米人がカポエイラを教える立場でもある。米国で初めて卒業者が出たのは1984年で、それ以来多くの上級生達が次々と育っている。センバ・マシャマ(元メストリ・アコルデオンの生徒でGCAPのアンゴラ・スタイルに転向)を始め、何人かの米国人がついにコントラ・メストリの肩書を授与されたし、マイケル・ゴールドステイン(メストリ・オンブリーニョ、メストリ・ノーの生徒)やスエレン・アイナースン(メストラ・スエリー、メストリ・アコルデオンの元を卒業)などはメストリの肩書までも授与されている。今日、ニューヨークだけでも、ジェロン・ヴィエイラ、ジョン・グランジ、エドナ・リマ、ボン・ジェズス、リンコゥン、ピラオン、カルバオン、カシアス、ドウトール、ジョー、マカコといった、多くの著名なメストリや資格も持った教師達が、毎日何千ものカポエイリスタを指導している。1995年6月12日、ギウリアーニ市長は、カポエイラが米国に紹介されて以来20年が経ったことを記念し、この日を「カポエイラ・デー」とすることを宣言した。

ヨーロッパにおけるカポエイラ

カポエイラは、米国よりも先にヨーロッパに到達していたかも知れないが、その地位を築くのはより時間を要した。旧大陸で初めてカポエイラを教えたのは、恐らくネストール・カポエイラであろう。
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# by brasilia70 | 2012-04-24 14:59 | Jaspion
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1969年にセンザーラで最高位の赤帯を授与されたのち、ネストールはしばらくの間、海外で過ごそうと決めた。1971年、彼はロンドンへ到着し、そこで1年間、ダンス・アカデミーでカポエイラを教えた。彼は3年間ヨーロッパを巡り、異なる都市で教えた後、ブラジルへと戻った。

 ヨーロッパにおけるもう一人のパイオニアは、1978年にドイツを訪れ、ミュンヘンで教え始めたマルチーニョ・ヒウザであった。メストリ・パウロ・シケイラは1980年にやってきて、ハンブルグにカポエイラスクールを開いた。彼らに続いて、1980年代には何百人ものカポエイラ教師 - 全てメストリという訳ではなかったが - が西ヨーロッパの異なる都市、主にドイツ、フランス、イタリア、イギリス、オランダ、そののちスウェーデン、デンマーク、スイス、スペイン、ポルトガルにも移住してきた。彼らは広域な移住ムーブメントの一部であり、こうして史上初めて、移民を受け入れる側だったブラジルから、何百、何千という国民が旅立ったのである。

 
 カポエイラは様々な方法によりヨーロッパに広まった。米国と同様、何人かの高位のメストリ達がブラジルからヨーロッパへと渡った。メストリ・カネラは1980年代初期、イタリアにマンガンガというグループを創立した。1987年には、センザーラの教師であるメストリ・ペイシーニョ、ソヒーゾ、ガヒンシャ、トニ・バルガスが、6カ月間ヨーロッパに滞在し、ワークショップと、第一回ヨーロピアン・カポエイラ・エンカウンターというイベントを実現させた。続いて、メストリ・ソヒーゾがフランスのモンペリエにセンザーラの支部を設立し、1989年以降はメストリ・ガトが同じくセンザーラの支部をイギリスのニューキャッスルとハーロウに設立した。ブラジリアのメストリ・コルデイロとアルシデスの生徒であるメストリ・ウモイは、1990年に自身のグループ、ユニアオン・ナ・カポエイラをポルトガルに移した。サンパウロのメストリ・ゼ・ペレイラの生徒であるメストリ・オウザドは、1992年、自身の組織であるアルゴラ・ジ・オウロと共にロンドンに移住し、後にカポエイラをシンガポールに持ち込んだ。

 カポエイラはまた、メジャーなブラジルのグループに属し、本国の高位カポエイリスタと密接な繋がりを保った若い教師達によっても広められた。こうして、1980年代中頃、メストリ・ベイジャ・フロールはパリに、メストラ・シルビア バザレリとコントラ・メストリ・マルキーニョスはロンドンに支部を設立し、サントスのセンザーラ・グループのリーダーであるメストリ・ソンブラのスタイルを教えた。ソンブラは彼らの昇段式に出席する為に、ブラジルからやってきた。サルバドールはメルカド・モデーロの“ストリート・カポエイラ“スタイル出身であるメストリ・パステゥは、1997年、ロンドンにハイゼス・ジ・フーアを創立し、スタイル不問のオープン・ホーダを毎週開いている。1990年代には、アバダ、アルチス・ダス・ジェライス、コルダオン・ジ・オウロ、ムゼンザ、パゥマレス、フィーリョス・ジ・ビンバといった、ブラジルの多くの有名グループが、様々な都市に支部を設立し、やがてそれがカポエイラのグローバリゼーションに貢献することとなった。

 最後に、他の場所同様、カポエイラは、正式な資格を持たない者も含む多くの若い教師達によってもヨーロッパに広められた。大多数はより良い生活を求めて旧大陸に渡った者であり、カポエイラ・ブームはしばしば、何も正式な資格を持たない者に生きる手段を与えているようである。こうして、本国では月並みなカポエイリスタに過ぎない若いブラジル人達が、メストリの肩書を自称しているのである。彼らはカポエイラ界では、「ヨーロッパ行きの飛行機の上でメストリの帯を取る」ことで知られている。こうした、指導者を持たない自称メストリと教師達はブラジルですでに問題化しているが、カポエイリスタ達による管理がほぼ無いに等しい海外では、よりいっそう悪い状況にある。とりわけ、カポエイラが広がる新しい地域はどこでも、米国開拓時代の西部地方のようなもので、ほとんど何でもありの状態にある。カポエイラ、そしてブラジル文化についてうわべだけの知識しかないヨーロッパ人までが教え始めた。彼らはそのアカデミアやイベントを自賛するツヤツヤのチラシを配るかも知れないが、その活動を支える高位のメストリを持たない。この結果、ブラジル国外でのカポエイラの組織化を唱え、恒常的な標準化の必要性を主張する正式な教師、メストリ達の間で、懸念が広がることとなった。

 当初、ヨーロッパのカポエイラ教師達は、どちらかというと孤立していると感じていた為、たいていは、個々のスタイルに関わらず他のグループの教師達と喜んで協働した。いくつかの場所は、ヨーロッパのカポエイラ発展の為、非常に重要となった。
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# by brasilia70 | 2012-04-23 14:59 | Jaspion
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1988年以来、メストリ・パウロ・シケイラは、毎年夏にハンブルグで大会を開いており、多くのブラジル人メストリ達が参加している。これは1990年代、ヨーロッパにおいて最大のカポエイライベントの1つとなり、毎年様々な国から何百というカポエイリスタを引き寄せた。クラウジオ・サマラとルイズ・カルロス(マヘッタ)は、1991年、アムステルダム・イースター大会を開催し始めた。こちらも、いまやヨーロッパで主要なカポエイライベントの1つとなっている。フランスとイタリアの他の場所でも同様に、ヨーロッパのカポエイリスタ達の定期的な大会開催地が確立された。急速な発展は、大会を催す教師達の関係も変えた。何十年か前、サンパウロがそうであったように、より競争的となったのである。もし1980年代、西ヨーロッパに分散した数人のカポエイリスタ達がイベント開催の為にお互いを必要としたなら、1990年代には同じ都市に何人かのカポエイラ教師が地位を確立することになる。確固たるグループの教師達は、自分達の“テリトリー“とみなす町で他のカポエイラグループのアカデミアが開かれても、それを必ずしもカポエイラの発展と捉えるわけではない。ヨーロッパに拡大する大きなグループはまた、他のグループとの関係を強めるよりも、同じグループの支部間の交流を好む傾向にある。これらの問題にも関わらず、ヨーロッパカポエイラ界の成熟度は増している。米国ほどのレベルに達していないとしても、ヨーロッパもすでに、その土地で初のメストリがいる。2001年にメストリ・カネラの元を卒業したエドガルド・サナニエロである。

グローバリゼーションの影響

カポエイラの国際的発展の中心は米国とヨーロッパであったが、その他の国々でも広まった。例えば1970年代以降、メストリ・ルシヂオは日本で教え、彼の生徒はアジア格闘技大会に出場した。カポエイラは比較的早い段階で、イスラエル、南アフリカ、カナダにも導入された。最近のカポエイラ拡大の波は、東ヨーロッパ(ポーランド、エストニア、セルビア、フィンランド)、東南アジア(シンガポール)、ラテン・アメリカ(メキシコ、ベネズエラ)、そして南アフリカ(アンゴラ、モザンビーク、南アフリカ)へと向かっている。太平洋を挟んでカポエイラの発祥と隔たりのある地域でも、カポエイラの大会を開催できるようになった。こうして、2002年の4月に、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、シンガポール、日本から60のカポエイラグループがシドニーに集い、60名が第一回アジア・太平洋インターナショナル・カポエイラ・チャンピオンシップで競い合った。
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# by brasilia70 | 2012-04-22 14:58 | Jaspion
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 世界中にカポエイラが広まったことは、カポエイラに重要な意味をもったことは言うまでもない。多くのグループが、国外に多くの外国人生徒を獲得し、文字通り国際的になった。国際カポエイラ・アンゴラ連盟は米国、ブラジル、ヨーロッパに11の系列グループを持つ。サルヴァドールに本部を置くトパージオは欧州、米国、ラテンアメリカ諸国に1999年時点で計10,000人の生徒を持つ。おそらく世界最大のグループ、アバダはブラジル25州、16カ国に1996年で20,000人、1998年には25,000人を擁している。

 グローバリゼーションは、カポエイラが真に理解されるにはほんのスタートにすぎない。ポルトガル語を理解しない生徒は、歌を歌ったり、コーラスの意味を理解するのが難しい。アフロ・ブラジルのリズムに不慣れな人は、カポエイラのリズムをジンガに取り入れるのに苦労する。結果として初心者やときには中級者も歌や楽器演奏を嫌がり、激しい動きのみを好む傾向にある。それは音楽と動きの統合を欠き、指導者が直すのが難しい、スイングのない不器用なジンガを導く。

 しかしカポエイラが異なる文化環境におかれたとき、双方に文化的な誤解が生じる。近年国外に移住するカポエイラ指導者の中には、その国の言語を十分話せない者もいるし、ましてそういう人はその国の文化を理解することはない。分かりやすい例がある。ポルトガル語でmestreは職人の親方とか特定の技術を教える人を意味する。mestreと呼ばれる人は深い尊敬を集めることになる。多くのカポエイラ指導者はポルトガル語のmestreを英語のmasterと翻訳し、生徒たちにも自分をそう呼ぶことを求める。しかし英語のmasterは奴隷の主人という意味も持っているのだ。ちなみにポル語ではその意味ではsenhorという語を使う。一人のカリブ人の友人が、自分の祖先は奴隷としてひどく苦しめられた、自分はだれに対してもmaster(主人)なんて呼び方はしないと、皮肉ったっぷりに話していたのを覚えている。この種の誤解は世界中のカポエイラ・クラスで日常的に起こっているし、それは理由で上達が遅れたり困難になることもある。一方で多くのメストリ達は、外国人もカポエイラを学べると言うだけでなく、非常に上達してきていると主張している。

 今日カポエイラ指導者は、サンバ・ダンサーやミュージシャン、サッカー選手と並んでブラジルの輸出品となった。その役割にも変化が出ている。彼らはただカポエイラについて説明できるだけでなく、ブラジル全般について話せなくてはならない。その過程においてカポエイラはエキゾチックな格闘技を探している人々にとっての商品となりうる。もしカポエイラが商品になれば、指導者もまた同じである。指導者の多くが黒人や褐色人種の子孫であり、鍛えられた肉体を持っているため、彼らは容易に黒いスーパーマンのイメージに重ねられるし、カポエイラも黒人の肉体性のシンボルのようにとらえられた。反面多くのブラジル人指導者はブロンドの白人女性(おそらくは白人奴隷主の妻に対する近づき難さに由来するイメージだろう)との関係を楽しんでいる。このように国外でカポエイラを教えることは男性指導者と女性生徒の間に複雑であたらしい関係を生んでいる。そのことが時に文化衝突を起こすこともあれば、重要な学習過程となることもある。

 今後さらに取り組まれるべき問題の核心は、カポエイラがそのオリジナルの文脈から離れて輸出されるとき、どの程度その意味が変化するかという問題だ。たとえばブラジルでは奴隷制の問題はすべてのアフリカ系の人々にとって痛々しい遺産であるばかりでなく、そうでない人、自らをそうみなさない人にとっても今日なお重要な問題である。
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# by brasilia70 | 2012-04-21 14:58 | 久保原
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奴隷制はいまだに、しばしば話題に上るがゆえに、カポエイラ教師がその起源や、奴隷達にとってのカポエイラの意味を論じる時、少しばかり踏み込んだ説明が必要である。その一方で、奴隷制の共通遺産は、離散した他の黒人達にとって、なぜカポエイラがかくも魅力的かの主たる理由となっている。米国の黒人カポエイリスタの中には、本当の意味でのカポエイラを理解できるのは黒人だけだ、と主張する者さえいる。その結果、黒人のみのホーダを奨励している者もおり、それが他のカポエイリスタ達を困惑させている。少数の米国の黒人教師達は、アフリカ系アメリカ人だけを対象に指導すると決めてさえいる。このように、人種間の関係、及び差別化の特異性は、カポエイラが米国で修練されるにあたり影響を及ぼしている。

 
 しかしながら、一般的には、グローバル化したカポエイラは包括的な傾向にある。恐らくはブラジル国内以上に、ストックホルムからシドニー、またボストンからバルセロナに渡るカポエイラのクラスは、階級、民族、性別、文化的相違が展開され、改めて話し合われる場所となっている。ベルリン、パリ、ロンドンの団体における私の経験が示唆するのは、カポエイラはとりわけ、多文化のバックグラウンドを持ち、自らの多様性を受け入れてくれる文化的形態を探し求める人々を大変惹きつけることだ。それゆえ、異なる人種への相互尊重と異文化への理解は、このカポエイラの新たな局面において重要な成果である。このように、ブラジル国内同様、カポエイラはその修練者にとって、市民権とは何かを学ぶ場所として機能することができる。

 センザーラの共同創立者であるジゥ・ヴェーリョは、カポエイラは常に新たな局面に適応できるがゆえ、ジェスチャーやボディランゲージがそれに応じて必然的に発達していくのだ、と示唆した。そうであれば、ヨーロッパや米国でのカポエイラがある日、“ヨーロッパのカポエイラ”、“米国のカポエイラ”となり、個々の団体が、特定の観衆の美学、ライフスタイル、世界観に通じるスタイルを発展させてもおかしくはない。1つの例として、一部の米国カポエイリスタ達によって取り入れられた“カルンガ・パラダイム”がある。アフリカ人中心主義の作家達によって展開された理論によれば、“霊界へと移行する為の宇宙の輪“がカポエイラの”根本的な中央アフリカの概念“を構成するという。彼らにとってカポエイラをするということは、このカルンガ、つまり生と死の境を渡り、”儀式的に先祖を映し出す“方法である。我々が第3章と4章でみたように、このような意図はブラジルにおけるカポエイラの伝統には見られず、これまでのところブラジルの慣習とは相容れない。このようにカルンガ・パラダイムは、現在米国のいくつかのカポエイラのホーダにのみ見られる試みである。

 グローバルな局面でのカポエイラは今もなお、アイデンティティーを備えている。アフリカ人、またはアフリカ系ブラジル人のシンボルとなってはいるものの、グローバル化したカポエイラは大抵の場合、もはや特定の階級や民族グループではなく、むしろ抑圧や“体制”に対する包括的な抵抗意識へとリンクする。このことは長期的目標の達成にも結びつく、直接的な利益になると思われる。このようにカポエイラは、そのスタイルが世界的に知られるようになっただけでなく、抵抗運動のグローバルなサブカルチャーの一部となっているが、このどちらの意味においても、離散したアフリカ人達はすでにR&B、サルサ、サンバ、ソカ(トリニダード・トバゴ発祥のポピュラー音楽)、レゲエ、ラスタファリアニズム(アフリカ復帰を唱えるジャマイカの黒人による宗教・政治運動)を通して多大に貢献している。大西洋岸の黒人達による他のクレオール((ヨーロッパ人と黒人の混血の意)・アートとともに、カポエイラはとりわけ、反体制者的姿勢の手段、言語をもたらすことができるようである。

 第二次世界大戦以降、この種の態度は“クール”と呼ばれた。この語は元々、米国の黒人ジャズ、ブルースミュージシャン達の美学、態度に由来し、彼らはこれを人種的抑圧に対抗するすべを表現するのに用いた。排他を美徳とすることによって、彼らは支配的な白人層とメインストリームの文化に対し、自らの価値を再確認するすべを見出したのである。この言葉はここ十数年でますます広まってきている。“クールなこと”は我々の日々の生活における根本的矛盾に対する答えである、と示唆する者もいる。それによって人々は1960年代の文化的革命と1980年代の新自由主義的革命を調和させることができる。辛辣な世界的資本主義の要求に従い1日8時間働くが、晩と週末はセックス、ドラッグ、ロックンロールに耽溺して過ごすのだ。
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# by brasilia70 | 2012-04-20 14:58 | Jaspion
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ディック・パウンティンとデビッド・ロビンスはこの“クールな”態度は、超然さ、自己陶酔、皮肉、快楽主義の主たる4つの人格的特徴から構成されている、と説明している。

 これら4つの態度は、カポエイラに上手く当てはまる。超然さはカポエイリスタがゲーム中、過剰な反応を抑えるよう努めつつも、瞬間的に相手の動きに捕らわれたと認める時、あるいは相手の向こう側の空いているスペースを見据える時に養われる。自らの体をもっての不断の鍛錬は、容易に自己陶酔のボディビルダー的態度へ繋がることが、カポエイラが行われる度に制作される長々としたビデオ映像、大量の写真に反映されている。皮肉は、ゲームそのものと、ホーダの状況を表現するカポエイラの歌の即興演奏を通じて発達する。カポエイラの修練における狙いとは、ゲームに秀でることであり、カポエイラをすることは非常に楽しいため、人々はほとんど中毒のようになってしまう。その上、カポエイラのイベントに参加した者は皆そう言うように、カポエイリスタ達は大抵、活気づいたパーティで浮かれ騒ぎ、多くの人がそこでストップして日常の仕事に戻るのが難しい、と思うところまで人生の良い面を楽しむことがとても上手い。

 もしカポエイラがこのように、離散した人々のクレオール・アートとして“クールさ“をほぼ完璧なものとして具現化するのなら、疑問なのは、浸透しつつあるこの態度をどこまで”抵抗の精神”とみなせるかだろう。もし“クールさ”が、西洋においてこれまで重要視されてきた労働観や家族の価値を奪ってしまうなら、それはまた進化した消費者資本主義の支配的理念となっていく。抵抗精神とこうした新しい観念の対立に関する議論は、グローバル化したカポエイラでも為される価値がある-どちらか一方だけ正しい、ということは滅多にないからだ。メストリ・ジェロン・ヴィエイラは近年、「グローバル化は世界を米国化することを意味するが、カポエイラは心と体を独立させることができる」と言明した。世界中の多くのカポエイリスタ達が、この見解に賛同しているようだ。しかしながら、その“独立の美徳”を否定せずとも、カポエイラはまた同時に、グローバル化のプロセスに重要なツールであることも明白である。

コンテンポラリー・スタイル

カポエイラのスタイルの変化は、多くの社会的変化と結びつく要素に起因している。戦後、若者のサブカルチャーを分析したディック・ヘブディッジは、それらが英国において、かなりの規模の黒人コミュニティの存在に介在された反響の上に成り立っていると示唆した。サブカルチャーは「象徴的秩序に対する象徴的挑戦」を表し、彼はサブカルチャーを“支配的イデオロギーに対する経験された矛盾と反論が遠回しにスタイルで表現される反抗の一形態”であると説明している。

 カポエイラはある意味、若者のサブカルチャーの性質を帯びている。なぜならその練習生の大多数が30歳以下であり、特定の行動、服装規範を守り、カポエイラの実践を支配的な世界秩序に対する反抗の一形態と位置付けているからだ。同時に古参のカポエイリスタ、特に伝統を保持しつつ革新的要素を取り入れることに責任を持つメストリ達の存在は、カポエイラを他の社会的組織や位置づけの形式になぞらえる。格闘技の組織は、教会や政党と同じく、特に持続的に拡大している期間があると、反目し合って分裂する傾向にある。副次的なスタイルは伝統と革新的要素を寄せ集めた結果かも知れないが、それらはまた、実践者達を団結させる明確なメッセージを発するのだ。カポエイラの形式的側面における変化と新しいスタイルの出現は、かように社会的状況と文化的意味における変化を表現しているので、常に意義深い。

 ブルラマキ、ビンバ、パスチーニャの例を追い、他のカポエイラ教師達も彼ら自身のスタイルを確立しようとしている。カルロス・セナはそれを最初に試みた1人である。
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# by brasilia70 | 2012-04-19 14:55 | Jaspion
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 1931年サルヴァドールに生まれた彼は、1949年にビンバのもとで練習を始めた。彼はもっともすぐれた弟子の一人になり、1953年のヴァルガス大統領に対するパフォーマンスにも参加している。1954年にはビンバの道場の技術責任者にもなった。しかし1955年彼はセナヴォックスという名の自前のグループを作ることを決意し、よりスタイリッシュなカポエイラを教え始めた。セナを特徴づけるのは、カポエイラが「民俗文化化することによって停滞する」ことに対する批判と、その「スポーツ化」に対する情熱だった。彼は練習やホーダを管理する一連の規則を練り上げた。「崇高な規則、厳格な規律、絶対的な尊重と堕落しないモラル」は、「カポエイラ寺院の内外で」守られるべき基本だった。セナもまた帯で色分けするシステムを開発し、体系的で軍事主義的な「サウヴィ」という敬礼を提唱した。彼の作り出したルールは軍や軍国大勢の支持者たちにアピールした。セナはサルヴァドールのエリート・クラブと軍学校にカポエイラを紹介した。彼は1972年にブラジル・ボクシング連盟が採択した「カポエイラのテクニカルルール」の草案作りにも協力した。1960年代を通じてセナは、アンゴラでもヘジオナウでもない第3のスタイルを代表すると考えられていた。それはエスチリザーダ、あるいはセナヴォックスと呼ばれた。しかし当初の成功や軍事関係者との良好な関係にもかかわらず、セナのスタイルは長く続くことはなかった。彼の発明のいくつかは現在の主流のカポエイラにも取り入れられたが、彼の軍事的ヒエラルキーや規律への強いこだわりは、軍事政権が勢力を増す1970年代において急速に時代に合わなくなっていた。

 アンゴラ、ヘジオナウと並行して独自のスタイルを確立したもう一人の人物がワシントン・ブルーノ・ダ・シルヴァ、メストリ・カンジキーニャ(1925-1994)だった。サルヴァドールの旧市街の貧困地域マシエル・ジ・バイショに生まれた彼は、1935年アベヘにカポエイラを学んだ。アベヘはサントアマロの有名なメストリで、パスチーニャの生徒だった。ビリンバウは、ウルグアイ地区のゼカに学んだ。幼少時代、靴職人の見習だった。パスチーニャがひいきにしたサッカーチーム・イピランガのゴールキーパーとして黄色と黒のジャージを着たこともある。またナイトクラブの歌手として生計を立てていた時期もある。1951年彼はオアスチーニャのコントラ・メストリとして雇われ、そこで教え始めた。友人を通じてサンヴァドール観光局に定職を得たことから、カポエイラ・ショーなどでは常に当局から依頼されるキーパーソンになった。このことが他のメストリ達の嫉妬を買うこととなり、あるメストリはカンジキーニャを貶める呪いをかけた。カンジキーニャもカンドンブレに通じた人と親交が深かったので、呪いを解く儀礼で対応した。この一件はカンジキーニャが仕事を回復するまで続いた。

 カンジキーニャがブラジル全土で知られることになったのは、バッハヴェントやパガドール・ジ・プロメッサなど多くの映画のカポエイラのシーンに登場したことによる。彼はまたカーニバルにカポエイラを取り入れた第一人者であるとも言い、1961年に「バグダッドの商人」というサンバチームで行進したという。バイーア文化に対する彼の深い造詣は、ショーの中でカポエイラ以外にもサンバ、マクレレ、プッシャーダ・ジ・ヘジなどを組み合わせる演出を可能にした。彼は何人もの大統領やそのほかの有名人にカポエイラを披露したことを誇りにしている。すぐれたミュージシャンであった彼はムゼンザ、サマンゴという2つのビリンバウのトーキを発明した。

 要するにカンジキーニャは、ビンバやパスチーニャのカリスマ性や指導力に打ち負かされない数少ないメストリの一人として、同世代のすべてのメストリ達の中で際立っていた。
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# by brasilia70 | 2012-04-18 14:55 | 久保原
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カンジキーニャはサルヴァドールで第3の偉大なメストリと見なされるようになった。たとえ彼が新しいスタイルを作ったとは見なされないとしても、それは彼が現代のカポエイラに与えた影響からすれば正当な評価である。アベヘに学び、パスチーニャに同行し教えた実績からすれば、彼ほどアンゴレイロとして正統性のある人物はいないはずだった。しかし彼は自分のアカデミアを持つと、パスチーニャ側の伝統復興側でも、ヘジオナウ側でもない立場をとった。

 彼の明るい人柄はカポエイラ界で彼を人気者にし、南東部や他の地域の大きなイベントに招待された。メストリ・ブラジリアと他のサンパウロの生徒たちは、サンパウロ連盟の共催でカンジキーニャのために民俗文化フェスティバルを開催した。1981年に創設されたメストリ・カンジキーニャ杯も彼の名声を広めた。のちに彼が語るように「わしは泣いた。感動が極まったのじゃ。30,000人の観衆がわしに拍手をしていたのじゃ」。

 バイーアの二人の大御所のはざまでカンジキーニャの独立したポジションは、新しい文脈でアンゴラ対ヘジオナウという古典的な対立は無益だと感じていたサンパウロの若いプロフェッソールたちをとらえた。カンジキーニャの高い姿勢での素早いカポエイラは、彼らに、マンジンガは様々な表現の仕方があるんだということを感じさせた。サルヴァドールでイタポアンやエジキエウといった多くのビンバの生徒たちやサンパウロの多くのカポエイリスタとのつきあいは、厳格なアンゴラ界の外で彼の教えや発明の受容を容易にした。たとえばサマンゴはサンパウロで多くの人に行われ始めた。南部への旅行の際にカンジキーニャとパスチーニャの間にトラブルが起こった。個人的なライバル意識もさることながら、カポエイラに対するとらえ方を巡る問題だった。このような経緯でカンジキーニャは急進的な復興主義者に対する最も目立った批判者となった。彼は伝統的なヴァジアソンの唯一の継承者だとするアンゴレイロ達の主張に異議を唱えた。

 わしは生徒に高いジョーゴも低いジョーゴも教える。わしはアンゴラ人じゃない。わしはブラジルのサルヴァドールに生まれた。ナイジェリアでカポエイラを学んだんじゃない。アンゴラのカポエイラなんてものは幻想だ。アンゴラにカポエイラは存在しない。わしはアベヘにカポエイラを習った。彼もまた高い蹴りを出した。『ヴァジアソン』の映画を見れば、故クリオのジョーゴは素早いし、高いのも低いのもある。もちろん知らない相手に対しては低いメイア・ルーアをするし、友人とするときは足を高く上げてもいいのじゃ。

 結果としてカンジキーニャは、1960年代以降のサンパウロなど南東部において今日主流のカポエイラスタイルの形成に大きな影響を及ぼした。カポエイラの中ではこのスタイルをどういう名前で呼ぶかについて統一した見解はない。とくにバイーアのアンゴレイロ達はヘジオナウというラベリングをするが、多くの者は新しい進化した形態と理解したうえで単にカポエイラという呼び方をしている。その意味で彼らは正しい。この主流のスタイルでは、ビンバが好んだオーケストラ(ビリンバウ1本とパンデイロ2枚)を採用していないし、逆にアタバキ、アゴゴを取り入れている。トーキもビンバが好んだものと違い、サン・ベント・グランジ・ジ・アンゴラあるいはピケーノが多い。ホーダの始まりもラダイーニャから始まり、ビンバのクワドラではない。アンゴラのいくつかの要素は改めて取り入れられ、受け継がれているものもあるが、いくつかの要素はビンバがそれらを拒んだのと同じ理由で取り入れられていない。とくにシャマーダは南東部のホーダではほとんど見られない。ヘジオナウの他の要素も取り入れられた。特定の蹴りや動きの反復練習が、ときとして音楽無しで行われた。ビンバの8つのセクエンシアは多くのアカデミアで教えられた。結果として速く、高い姿勢のジョーゴがホーダの主流になった(たとえアンゴラのトーキで、ゆっくりのスピードでスタートされるにしても)。
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# by brasilia70 | 2012-04-17 14:54 | 久保原