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 「世界をひと巡り!」カポエイラのグローバリゼーション 1970年代-90年代

 おそらくブラジル国外でカポエイラを紹介した最初のカポエイリスタは、50年代、60年代におこなったアルトゥール・エミージオだろう。彼はアルゼンチン、メキシコ、米国とヨーロッパを訪れた。彼はブラジル大統領のヴァルガスやクビシェッキだけでなく、アイゼンハワーやケネディにもカポエイラを披露したのだ。その後多くのブラジルの興行会社が欧米に出向き、カポエイラやそのほかのダンス、リズムを紹介した。1970年代のヨーロッパでカポエイラ普及に重要な役割を担ったのは、振付師・ダンサーのドミンゴス・カンポスとメストリ・カミーザ・ホッシャに率いられたブラジル・トロピカルだった。カミーザ・ホッシャはビンバの弟子で、当時ブラジルで最も優れたヘジオナウのプレーヤーと見なされていた一人だった。これら興行会社の多くは観客を得ることが目的で、必ずしもカポエイラを教えることには関心を持っていなかったが、結果としてカポエイラの普及に重要な役割を果たした。多くのカポエイラ指導者が、最初はこうしたショーグループの一員として海外にわたっている。その過程で興業をした地に根を下ろすことになった。

米国におけるカポエイラ

 米国ではジェロン・ヴィエイラとロレミウ・マシャードによってカポエイラが紹介された。彼らは1975年ブロードウェイで上演されていたブラジルのインディオに関する芝居『葉っぱの人々』でカポエイラを演じた。ジェロンはもともとバイーアのメストリ・ニトとエジキエウの弟子で、のちにのちにリオでセンザーラにも加盟した。同時にエミリア・ビアンカルジが主宰するヴィヴァ・バイーアのメンバーにもなった。1977年彼はダンス・ブラジルを創設し、米国中や他の国々を公演して回った。彼はニューヨークでカポエイラを教え始め、東海岸のほかの都市でもワークショップなどを行った。多くの人々が彼の動きが1980年代のブレイクダンスの大流行に影響を与えたと信じている。彼自身比較的控えめにだがカポエイラと南ブロンクスのブレイクダンスがアフリカ起源という共通性を持っていることを指摘している。彼の目覚ましい貢献度は、1990年にブルース・リーやジャッキー・チェン、ジャンクロード・ヴァン・ダムと並んで最も重要な格闘家20人の一人として殿堂入りしたことで認められた。

 ビンバのもう一人の弟子ビラ・アウメイダは、米国は西海岸に根を下ろした。カポエイリスタの中ではメストリ・アコルデオンとして知られる彼は、1979年スタンフォード大学の中流層の学生にカポエイラを教え始めた。彼は直にサンフランシスコの下層やラテンアメリカ出身者にも指導を拡大した。最終的に自身のアカデミー「カポエイラ・バイーア」を開いた。1983年にして彼は52人の生徒をブラジルへ連れて行き、サンパウロ大学で行われた大会に出場させた。アコルデオンは世界カポエイラ協会を創設し、1981年にはカポエイラに関する最初の英語の文献の一つとなる著書を出版した。アコルデオンとジェロンは、米国のカポエイラの第1世代を教えたという意味で、カポエイラの普及に非常に重要な役割を担った。1980年代には米国中でわずか4つのカポエイラアカデミーがあったにすぎない。ジェロンとロレミウがニューヨーク、アコルデオンがサンフランシスコ、エウゼビオ・ダ・シウヴァがイリノイのイースト・セント・ルイスにいた。
by brasilia70 | 2012-04-25 19:11 | 久保原