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179:久保原

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 1970年代までに取られた、カポエイラの発展にとって決定的に重要だったことは、1974年のサンパウロ・カポエイラ連盟の創設だった。サンパウロにおける第1世代、第2世代のほとんどのメストリ達(オンサ、スアスナ、ブラジリア、ピナッチなど)がそこに参加した。彼らはアカデミアを維持するために日々奮闘している状況へ大きなサポートになるだろうと期待していた。もし連盟がその機能を果たしていたら、それは同時にカポエイラの現代化に貢献し、カポエイラを競技スポーツへ変える傾向を強化した。毎年連盟によって開催されたトーナメントはその発展にとって重要な意味をもった。スポーツ選手のようにカポエイリスタたちはグループのロゴの入ったまっ白いユニフォームを着てスタジアムを行進した。彼らはブラジル国旗とサンパウロ州旗に、ヘジオナウ式のあいさつである「サウヴィ」と言って礼した。試合はボクシングに似て性別、年齢、体重別にカテゴリー分けされた。審判は、有効攻撃、反撃の数をカウントし、ハステイラやチゾウラといった技には2ポイントが与えられた。相手も、転はされたり、エリア外に出た場合には減点された。そこではビリンバウではなく、審判の笛が試合の開始を告げた。競技者たちは蹴りを連続で繰り出し、ジンガはほとんど使われなかった。

 当初は殴る以外のほとんどの動きが認められていたが、カベッサーダで事故が起こってから禁止された。ゲームは急激に管理されるようになり、後半部では特定の動きをさせられ、できなければポイントを失うことになった。トーナメントの開催がサンパウロでカポエイラを成長させたことは疑いない。「それらを好きでない人たちもいたが、それは開催された」。のちに批判することになるメストリ・ミゲウも当初は参加していた。

 連盟は、カポエイラがスポーツ種目として確立することに寄与したばかりでなく、ブラジル体育として制度化に重要な役割を果たした。たとえば連盟に属するグループは練習の前と最後に「サウヴィ」の挨拶を使わなければならなかったし、アカデミアにはブラジル国旗を掲揚しておかなければならなかった。対照的にトーナメント以降は、自然発生的なオープン・ホーダ、あるいは「民俗文化的な見世物」などは禁止された。

 サンパウロにおけるカポエイラの急速な成長はグループ間の争いにも拍車をかけた。メストリ・アウミールによると

 市場の獲得を目指したアカデミア間の競争は日常的なものになった。カポエイリスタ間の暴力は儀式のようなものになった。しだいにカポエイラは祭り、表現であることをやめ、カポエイリスタはアーティストではなくなり、単なる競技者、商人、興業者になり下がり、そこでのカポエイラは暴力を消費するための商品にすぎなかった。その過程でカポエイリスタ達は自分たちが分断され孤立していることに気づき、カポエイラがすでに喜びではなく、生計を立てるための義務になってしまっていると悟った。

 アウミール・ダス・アレイアスはスアスナの生徒で、第2世代の若いバイーア出身のメストリ達の一人だった。彼は、サンパウロ連盟とは距離を置く形で自分たちのグループを維持していた。彼はカピタゥン・ダス・アレイアスの創立者のひとりであり、この名前はバイーアのストリートチルドレンを描いたジョルジ・アマードの小説にちなんでいる。連盟に属していたメストリ達がカポエイラを社会的に認知させ、ブラジルの格闘技として確立させようと奮闘していたのに対し、カピタゥンは社会システムと戦う「抑圧されたカポエイリスタ」たちの統合を試みていた。
by brasilia70 | 2012-05-06 22:28 | 久保原